ガーベラ

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 少年がふと、何か途轍もない不安に駆られて、目を開いてみると、広がった景色は見慣れた自室の天井などではなく、いや、景色など広がっていなかった。そこは、見渡す限り黒に染まった空間だった。手も足も、動かそうとするのは脳だけで、大の字に伸び切った四肢はそれを無視して、未だ眠りについているようだ。床に磔にでもされているみたいだ。呼吸の音だけが、いやに響く。  夢か現実かもわからない。しかし、不安も恐怖も感じなかった。不自由から来る不快感は多少あったが。  目は動く。しかし首から下は動かない。僅かに右の方に灯りがあるようだが、本当に微かなもので、視覚的にはなんの助けにもならない。  少年には、意識が無くなる瞬間までの記憶が一切ない。カレーの味とか、風邪を引いた時の倦怠感だとか、そういうものは覚えているのに、所謂「思い出」と呼べるものだけは、何一つ憶えていないようで、思い出そうと眉間に皺を寄せていても、何もない虚空に手をこまねいているようなむず痒さに深くため息を付くだけだった。時間の流れを感じさせるのは、規則的に、無意識のうちに繰り返される重苦しい呼吸の音。麻酔をかけられたまま意識だけ覚醒しているようだ。  体感3時間。何も変わらない。人が一時間にしている呼吸は3000回。つまり9000回、肺は規則的に膨縮を繰り返している。そう言われると、3時間が酷く長い時間のように感じて、そして更にこれから過ごすであろう時間を想像すると、少し億劫に感じる。先のことを考える度に、終わりは遠ざかり、向かう歩幅がちっぽけに見えてしまう感覚が、少年には見に覚えがあるような、そんな気がしてならなかった。  淡い希望に縋り付くように、必死に声を出そうとしたが、喉の奥にいる化け物に「声」がせき止められているみたいに、面白いほど声だけは出ない。  少年が肺に溜め込んだ空気を一息に吐き出しても、どうしても叫ぶことは出来なかった。当然、誰か来るわけがない。  時間という感覚を、とうに忘れてしまった頃、突然、暗く閉ざされていた空間が、ぱっと開かれた。思わず暗がりに慣れた両目をつぶった。網膜が焼き切れるかのような感覚だ。熱い。数秒後、恐る恐る目を開いた。  そこは、あまりに穏やかな風景だった。無数の花に埋もれた体を起こして、周囲を確認した。やはり人は居なかった。風邪が吹いている。花の匂いがする。川のせせらぎが聞こえる。  相変わらず、何も思い出せない。だけど、もう振り返る必要はない。    もう振り返らない。  花瓶には、花弁を一枚落とした、ガーベラが挿さっていた。  少女は、静かにそれに水をやった。    
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