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春は花びら(1)
羽を広げた蝶の形を模した透明なコーヒードリッパーにフィルターを載せ、コーヒーの粉を入れる。
猫の形をしたケトルを手に取り、尻尾の形をした注ぎ口からゆっくりと渦を巻くようにお湯を注ぐ。
甘いコーヒーの香りが蛇のようにゆったりと色のない空間を漂う。
平坂のカフェ。
それがこの店の名前だ。
曇りガラスの貼られた扉、壁、天井、テーブル、椅子、コの字型の3人くらいしか座れない小さなカウンターに至るまで全て白色。乳白色のような甘い色でもなく、雪のような荘厳な色でもない。強いていうならイタリアのルネッサン期に描かれた天使の羽のような血管が波打ち、筋肉の細部の動きまでも感じさせるようなような生々しい白。
それ以外に色は存在しない。
カウンターの中にいる男とコーヒードリッパー、そして男の背後の壁一面に描かれた花びらを舞い散らす大きな桜の木の絵だけが色を持っていた。
美しい。
これ以外の表現が果たしてあるのだろうか?
夜の背景に浮かび上がる淡く光る桜の花。幹は黒く、力強く大地に根ざしており、触れば生命の脈動が聞こえてきそうだった。枝は雄々しく空に向かって伸び、無数の艶やかな花を纏う。風に舞い上がる花びらは、竜の鱗を連想させ、乱れるように絵の中を舞っていた。
いや、舞っている。
音もなく風が吹き、桜の花びらは夜の空へと舞い上がり、男の肩に乗り、足元に散り.ドリッパーの中に飛び込んだ。
そして消えた。
そこに何もなかったかのように消えた。
男は、何事もなかったようにゆっくりとケトルでドリッパーの中に渦を描く。
男の名は、スミという。
この平坂のカフェの店主だ。
波打つような癖のある髪、整った顔には薄く髭が生えている。シェフコートを着こなす身体付きは細いが背は高い。しかし、最も特徴的なのは目だ。日に焼けたように赤みがかった目は、鈍い光を放っている。ドリッパーの中を見ているはずなのに、その瞳には何も映っていないように感じた。
猫のケトルを五徳の上に置く。
サイフォンの中にコーヒーが雫となって落ちていく。
「コーヒーまだあ?」
白いカウンターの角の席に座った桃色のカーディガンを羽織った女子高生が不満そうに声を掛ける。
艶のある長い黒髪をポニーテールにし、色白の肌、卵形の美しい輪郭に綺麗な鼻梁、少し厚めの唇、左目の睫毛も長い。身体の線が細いことはカーディガン越しにも分かる。とても美しい少女だがその右目は眼帯で痛々しく包まれていた。
少女の名前は、カナと言う。
カナは、形の良い唇を尖らせ、不満を表現する。
能面のようだったスミの表情が変化する。
「・・・いつからいた?」
「さっきからいましたよー」
拗ねたようにカナは言う。
「それよりコーヒーは?」
スミは、サイフォンを見る。
ドリッパーから落ち切って、一杯分溜まっている。
「ラテにしてね」
スミは、いつのまにか持っていた白鳥を模したカップにコーヒーを注ぎ、泡立てたミルクを乗せる。そして細い棒で表面をなぞり、何かを描く。そして小さな皿の上に乗せるとそっとカナの前に差し出す。
カナの表情に落胆が浮かぶ。
「これって・・・なに?」
ラテには、何も描かれていなかった。
いや、正確には何かを描いたのにぐちゃぐちゃに消されていた。
試験問題で間違えた答えを慌てて消したかのように。
「・・・失敗した」
スミは、悪びれた様子もなく言う。
「失敗したものを普通、お客に出す?」
「すまない」
そう言ってコーヒーを下げようとするのをカナは、慌てた止める。
「いいよ別に」
カナは、包み込むようにカップを持つ。
「今度は、可愛い絵を描いてよね」
そう言ってコーヒーをひと口飲み、顔を顰める。
「・・・苦い」
「コーヒーだからな」
「お砂糖ちょうだい」
「ない」
「じゃあ、口直しに手作りスイーツちょうだい。ケーキとかマフィンとかマドレーヌとか?焼き菓子でもいいよ」
カナの言葉にスミは、首を傾げる。
「手作り?」
「だってここカフェでしょ。それに貴方は・・・・」
突然、カナの口から言葉が消えた。
口が餌を求める鯉のように口をパクパク動かすも、声は掠りも発せない。
カナの目が動揺に震え、喉を押さえる。
「・・・どうした?」
スミは、怪訝な表情を浮かべる。
「大丈夫か?」
「・・・うん」
カナは、絞り出すように小さな声を出す。
左目を震わせ、喉を摩る。
「お菓子だが、あいにくと俺は料理が出来ないんだ。すまない」
その言葉にカナは、弾かれるように顔を上げる。
悲しげな瞳。
何かを言おうとするが口がパクパク動かすだけで声を発さない。
スミは、眉根を寄せる。
カナは、喉を押さえ、何とか声を出そうとする。
しかし、掠れた呼吸音が漏れるだけだった。
スミが何かを言おうと口を開くと同時に扉の開閉する音がカフェに響いた。
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