春は花びら(2)

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春は花びら(2)

 曇りガラスの張られた扉が開き、男が入ってくる。  年齢は30を少し過ぎたくらいか?襟足の伸びた白髪まじりの髪、温和な顔つきをしているが、頬が少し痩けている。筋肉質だが小柄な身体に皺一つないスーツを着こなしている。  男は、目線を動かし店の中を見る。 「ここはカフェですか?」 「そうです」  スミは、短く、無機質な声で返事をし、会釈する。 「いらっしゃいませ」  男は、白い店内を見回しながらカウンターまで歩いてくる。  生々しい白色のカウンターや椅子を触り、スミの背後に描かれた優雅に花びらの舞う桜の木の絵を見て感嘆の声を漏らす。  そして絵の中で花びらが風に舞って揺らめき、カフェの中にまで入り込んで来ていることに気づき、さらに驚く。 「これはプロジェクションマッピングか何かですか?」  絵から飛び出してきた花びらに手を伸ばす。  花びらは、男の手に触れると霧のように消える。  男は、どこかにプロジェクターがあるのではないかと探すが見当たらない。  スミは、答えずに蝶の形のドリッパーに新しいフィルターを乗せ、コーヒー粉を入れる。  無愛想な店主だとでも思ったのか?男は肩を竦めて正面の席に座る。そこでようやく眼帯の少女の存在に気づく。  カナは、驚いた顔をして男を左目で凝視している。少し厚めの唇が金魚のようにパクパク動くが声は出ていない。  男は、眉根を寄せる。 「どうかされましたか?」 「ひっ・・・はっ・・は」  カナは、喉を押さえ、口を動かすが空気が漏れる音が発せられるだけだ。 「大丈夫ですか?具合でも?」  カナは、首を振る。  額から油汗が浮かんでいる。 「あ・・・」  掠れるように言葉が発せられる。 「貴方は・・・どうやってここに?」  ようやく絞り出された言葉は何て事のない常套句だった。  男は、明らかに拍子抜けしたような表情を浮かべる。 「坂を登ってきたんですよ」  何を当たり前のことをと言わんばかりに肩を竦める。 「坂・・?」 「そうですよ。それ以外にここに来る方法はないでしょう?一本道だし」  カナは、また何かを言おうと口を動かそうとして、止める。 「そう・・・ですね」 「ですよね。凄い坂ですよね。急で細い砂利道がずっと続いていて。周りは暗くて両端は見えないし。永遠に歩かされるのではないかと思いましたが、急にぼんやりとした光りが見えて、たどり着いたのがここです。いやーまさにノアの方舟にでも出会った心境ですよ」  男は、心底ほっとしたように言う。  話しが終わると同時にスミが蝶の形を模したカップにコーヒーを注ぎ、男の前に置く。  甘く芳しい匂いが男の鼻腔を擽る。 「ありがとうございます」  男は、礼を言って目の前に置かれたコーヒーを見て驚愕する。  コーヒーの表面にラテで描かれていたのはにこやかに笑う男の顔だった。写真を貼り付けたようなその顔は唇の皺から髭剃りの跡、そして髪の毛数までも再現されているかのように生き写しだった。 「素晴らしい・・・」  男は、感嘆の声を上げる。 「ラテアートなら色々な店のものを、それこそ世界で修行してきたバリスタのいる有名店にも顔を出してきましたがこれ程のモノは初めて見ました。しかも、こんな短時間で。本当に素晴らしい」  男の賛辞にスミは、照れた様子も見せず静かに頭を下げる。  カナも男のラテを見る。  確かに凄い出来だ。  自分のものとは比べる必要もない。  しかし・・どこか寂しかった。  完璧に出来上がってるのにピースが足りないパズルのような違和感を感じる。 「いやー飲むのが勿体ないですなあ」  男は、スーツの内ポケットを探る。しかし、そこに目的のものがないことに気づき、慌てて他のポケットも探る。 「どうされました?」 「いや、スマホが無くて。写メしようと思って・・何時も内ポケットに入れているのに・・・」  男は、自分の入ってきた扉に目をやる。  まさか、あの坂のどこかに落としてきたのか?  しかし、その考えを読み取ったようにスミが否定の言葉を言う。 「最初からお持ちでなかったはずですよ。ここにはそう言った物は持ち込めないので」  スミの言葉に男は訝しむ。 「どう言う意味ですか?」  しかし、男の質問にスミは答えなかった。  男は、少し苛立った素振りを見せながらもそれ以上は口に出さずコーヒー手に取る。  淹れたてのコーヒーは、柔らかな湯気が出ているのにも関わらず不思議と器は熱くなかった。  よほど上質な器なのだろうか?  そう思うと蝶を模したデザインも意匠を凝らしていて自分に相応しいと感じ、男はほくそ笑む。  そして、ゆっくりとコーヒーを飲み・・。  吐き出した。  口から飛び出したコーヒーが唾液と一緒にスミのシェフコートと白いカウンターを汚す。  カナは、左目を見開いて唖然とする。  男は、青ざめた顔で何度も咽せ込む。  スミは、気にかけもせず、汚れたカウンターを布巾で拭く。  ようやく咽せこみの治った男は、今度は熱した煉瓦のように顔を紅潮させてスミを睨みつける。 「なんだこの不味いコーヒーは!」  今までの穏やかな様子から一変し、顔を醜く歪めて怒鳴る。 「こんな不味いコーヒー初めて飲んだわ!このオレにこんな物を飲ませてどう言うつもりだ!」  男は、怒りで捲し立てる。  カナは、男の変貌ぶりに小さく口を開けて目を巻く。  しかし、当のスミは、表情の1つも変えずにシェフコートの汚れを落としていた。  男は、皮膚が破れんばかりに拳を握り、ダンッとカウンターに叩きつける。 「無礼な奴め!こんな所には2度とこない!どうなるか覚悟してろ!」  そう叫んで扉に向かって歩きだす。  そして開けようとして気づく。  扉にノブがない。  いや、元々そんな物は存在しないかのように傷の一つもなかった。 「おいっこれはどう言う・・・」  男は、言いかけた言葉を飲み込む。  男がいる反対側の壁、先程まで何もないただの壁であったはずのところに扉が現れた。  男の背にある物と同じ形で、取っ手がない扉が。  スミの背後にある桜の絵から花びらが舞い上がり、カフェの中を荒れ狂う。  カナの髪に触れ、壁にぶつかり、床に散らばり、男の頬に触れる。 「貴方は決めないといけない」  スミは、ゆっくりと言う。 「生くか逝くかを」
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