春は花びら(4)

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春は花びら(4)

 男は、カイトと名乗った。  特にスミからもカナからも名を聞いた訳ではない。  話しをするのに不便だからと自ら名乗ったのだ。 「”鳥頭”をご存じですか?」  カイトの発した言葉にカナの身体が大きく震えた。  白い顔色が青白くなり、油汗が浮かんでいる。  その変貌を目の端で捉えたカイトは、小さく笑う。  しかし、スミがまったく表情を変えないことに気づき、笑みを消して眉根を寄せる。 「聞いたことありませんか?」 「存じません」  カイトは、驚きのあまり顎が外れんばかりに口を開く。  カナも瞳を震わせてスミを見る。 「あの鳥頭ですよ⁉︎あの日本を震撼させた鳥頭ですよ⁉︎貴方はその話しを聞きたいのではないのですか?」 「話すのは貴方です。何を話すかは私の知るところではありません」  まるで興味がないと言わんばかりにスミは、ドリッパーから古いフィルターを外す。  カイトは、組んだ両手を食い込まんばかりに握りしめる。  しかし、表情は崩さなかった。 「いいでしょう。なら話しましょう。私があの男を殺した話しを」  カイトは、話し出す。  それは今から1年以上も前の話しだ。  世間はちょうど夏休み。はしゃぎ回る子どもたち、うんざりしながらも元気な子どもたちを楽しげに見守る親、夏の雰囲気に酔いしれる若者、暑さにかこつけて酒を楽しむ三段をつける中高年や高齢者で世間は溢れていた。  その年の夏は、例年にも増して猛暑が続き、お盆を待たずして避暑地に観光に行く家族連れやカップルが多かった。  特に避暑をしながら温泉に入り、レジャーも楽しむことが出来る〇〇県の観光地は人気で、そこに向かう為に作られたオレンジ色の古い宇宙船を思わせる特急列車は指定席も全て埋まっていた。  車内は町中以上の賑わいを見せて、エアコンが付いているにも関わらず熱気が包み込んでいた。  その空間が氷点下まで下がる惨劇が起こるとは誰も思っていなかった。  そいつは突然に現れた。  ディスカウントストアで売ってるようなラバー製のカラスの被り物をし、身体を理科室のカーテンのような黒い布を羽織っていた。  そいつが現れた時、賑やかだった車内が静まり返った。  あまりの異様さに皆、現実として理解出来ず、思考が凍ってしまう。  そいつ・・・鳥頭は首を動かして車内を見回す。まるで出来の悪いアトラクションの人形のように。  そして唐突に止まると、鳥からは決して発せられる事のない醜い雄叫びを上げた。  その途端に思考のフリーズが解除される。  車内は騒然となり、人々は悲鳴を上げる。  鳥頭は、奇声を上げながら手に持つ包丁で逃げ惑う人たちを切り付けていった。  警察が駆けつけた時にはこの世の物ではない光景が出来上がっていた。  血飛沫と血溜まりで赤く染まる車内。  切り裂かれた部位を押さえて泣き叫ぶ被害者たち。  動かなくなった男性に泣き叫びながら呼びかける女性。  血まみれに切り裂かれて動かなくなった2人の子どもを庇うように覆いかぶさる母親。  返り血で赤黒く染まり、高らかに笑う鳥頭。  この光景を見た警察官、生き残った被害者たちはこう言った。  あれはただの地獄だった、と。
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