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あれは、今から2年か3年くらい昔。暑い夏の出来事だったと思う。
珍しく深酒した翌朝、目が覚めたのは、いつもより1時間遅れだった。
「まずい……!」
慌ててベッドから飛び起きる。
15分後の電車が、出社時間に間に合うギリギリの便だ。
顔を洗って歯を磨き、朝食がわりの野菜ジュースを口にする。スーツに着替えて眼鏡も掛けて、ビジネスバッグ片手に家から飛び出した。
「ハアッ、ハアッ……」
走り始めた俺の息は荒く、自分自身の呼吸音が、妙に際立って聞こえるほどだった。
全速力ならば駅まで10分程度だが、そんなに全力疾走は続けられない。すぐに走るのを諦めた。
とはいえ、のんびり歩くわけにもいかず、まるで競歩みたいな早足になった。
通勤時間帯の朝は、せわしないのが普通だ。それでも、これほど慌ただしい姿は珍しいのだろう。道ゆく人々が俺の方を見て、変な表情を浮かべていた。
笑いたければ笑え。遅刻寸前という危機的状況なのだ。他人の目を気にする余裕はない!
最初はそう思っていたのだが……。
「ママ、あれ……」
「しっ! 見ちゃいけません!」
俺を指さす子供と、その視界を遮るかのように立ち位置を変える母親。
まるで変質者扱いであり、さすがの俺も気分を害してしまう。
同時に、少し不思議に思った。傍から見て今の俺は、そこまで言われるほど常軌を逸しているのだろうか?
そのまま小走りを続けるうちに、ふと気が付いた。こちらを注視する通行人たちは、歩き方ではなく、顔のあたりに視線を向けている。
ならば、俺の顔に何かついているのだろうか?
気になって頬に手をやり……。
ようやく俺も理解する。外出時には必須のアイテム、感染症対策のマスクをつけ忘れていたのだ。
(「俺の顔に何かついてる?」完)
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