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第3話『 Loneliness 』
医師の言葉通り、数日後には退院を果たし、慣れないがらも日常が始まった。
以前行っていたであろうサイクルを不器用に動かしていく。
不幸中の幸い、身体に大きな支障もなかったので日常生活に特段困ることはなかった。
他人の体を動かしているような感覚は妙な新鮮さを感じる。
まるで夢を見ているようにしばらくは心ここにあらずの日々だった。
両親とはそれからしばらく口を聴けていない。なんとなく避けられているらしかった。
目が合っても彼らは笑顔を絶やさなかった。でもそれは懸命に絞り出したつくりもので、きっと寂しいのだろう。見ているとこちらも胸が痛んだ。
そしてその頃からようやく、ミドリは失ったものの大きさに気づいていった。
記憶の齟齬は、知らずしてミドリを孤独にしていった。
いまの彼女は百川ミドリだったナニかだ。
親しかった人間ほど、その会話はストレスが大きいものだったろう。心配はいつしか戸惑いと絶望に変わる。
最初こそ我慢しさえすれチグハグな会話の毎日にクラスメイトの目は徐々に逸れていった。
実の親でさえ認識の範囲では赤の他人なのだ。
距離を置くのも無理はない。自分たちの心だって整理がつかないのに、私なんかに配る余裕もないだろう。
なにも自分の傷口をわざわざ抉りにくる人間なんていない。
だから仕方ないことだって、諦めることにした。翠としては、周りのことを知らないぶん傷も最小限になる。
でも誰とも話さないなんて生きていないのと同じだ。退院して1ヶ月、どこへいっても口を開かなくなった心は余計に空っぽさが増して、だんだんと不安が込み上げてくる。
こうして独り、ようやく覚えはじめた通学路をとぼとぼと歩くだけの毎日が意味もなく過ぎていく。
だからいま、目の前に立つ少女が誰なのか、翠は咄嗟に判断することができなかった。
「えっと……あの、誰でしたっけ?」
溜めいていた息をどうにか言葉にしてやっぱり後悔する。
知り合いだろうか。クラスメイトにこんな子はいたっけ。部屋に飾ってあった写真を何枚か頭に浮かべるが、目ぼしいひとはいない。
それに彼女の着ている制服、あれはうちの学校のものじゃない。
入院中は面会謝絶で退院もすぐだったから知り合いの顔は知らないし、その後も学校と家の往復でロクな外出もしていない。
だからそれ以外の知り合いなんてさっぱりだ。ましてや、他の学校の子なんて検討もつかない。
「ミドリ……? どうしたの」
さっきまで嬉しそうだった女の子の顔が見るみる心配の色に変わる。その表情の変化に罪悪感と申し訳なさを覚えながら、けれどもどうしようもないという現実が毎度嫌になる。
「———ごめんなさい。わたしはあなたが誰なのかわからないんです……」
一呼吸おいて、淡々と事実を述べる。もう何度と繰り返したかわからない説明をつらつらと、困惑する少女に垂れ流していく。
これこそが翠の背負った痛み。知人だった人間の顔をなんどもなんども絶望で塗りつぶす。
「あ、そっか……そうだよね……。話には聴いていたけど、本当に忘れちゃってるんだ……」
当然の困惑にいまさら同情はしない。ミドリの頭はすでにこの場をどう切り抜けるかということに切り替わっていた。
そんなミドリの尻目に、数秒考えこんだ様子で顔をしかめていた少女だったが、「よしっ」と小さく呟くと再びミドリを見つめ返した。
人懐っこそうな瞳で、少女は照れくさそうに笑って手をもじもじと後ろに回す。
「はじめまして……になるかなっ、私は紫咲藍。えっと、ミドリとは昔からの幼馴染みでして……」
前髪を指で絡め取るのは彼女の癖だという。
『翠』という単語が自分の名前を指すことに数秒要した。名前で呼ばれるのなんて久しぶりだった。
それに思ったよりも彼女が取り乱さなかったのが意外で、内心驚いていた。
深々とお辞儀する律儀さに、少なからずどぎまぎしてしまう。
ほんのりと血色の良い口元を緩ませる藍は、以前私の親友だったそうだ。残念ながら彼女のことも当然さっぱりで、それを聞いて翠は会話するのが微妙に辛くなる。
「……ごめん、まだ顔と名前が一致しなくて」
「そっか……。でもっ、これからまた仲良くしていけばいいよ、お互いに」
肩を落としてもすぐに微笑みを取り戻した瞳を、ズルいと思ってしまうのはいけないことなのだろうか。
「ほんとうにゴメン……」
「あわわっ、べ、別にそういうのじゃなくて……。ただミドリが元気ならそれでいいよ!ていうか。まあ、その……えと——とにかく! ミドリは今のミドリでいいんだよ」
「え? あ、そうかな……」
「そうだよ!」
なんだろう、天使かなこの子。抱き締めたい。
『今の翠』。そんな言葉ひとつに救われた気持ちになってしまう自分がなんだか馬鹿らしい。
「……ありがとう」
素直な声で他人を見つめる。それは目覚めて以来はじめてのことだった。
「ううん、いいの。それより迷惑だった?」
「どうして?」
「だって、……」
黒くて大きな目が胸に刺さる。
星空みたいな瞳だった。気を抜けばその闇に呑まれそうなほどの澄んだ色。どうせなら、その闇に呑まれてしまいたい。
「大丈夫、全然迷惑じゃないよ」
かつての親友に、かつてしていた笑顔で応える。
ぱっと顔を明からげるアイに少しだけ目がうるんだ。変な気持ち。嬉しいのに胸がしめつけられてるみたい。
「どうしたの?」
上目がちにアイがこちらを見つめる。
同年の少女から目をそらして、川底に目を落とす。
なんでもないよ。吐いた語尾はなぜだかとても不機嫌だった。
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