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第4話『 I'm lover 』
時々、目覚めた日のことを思いだす。
それまでの何もかもを奪われながら、かつての自分に付きまとわれる毎日。
正直、起きなければよかったとさえ思う。
もしもあの時、目を醒まさずにそのまま緩やかに死んでいけたのなら、どんなに楽だったろう。
だってそうでしょ?
ただ眠っているだけならこんなに苦しまずに済んだ。その自負が翠にはある。
けれど同時にそんな考えに浸れるほど彼女は暇ではいられなかった。
もしもなんて考えるだけ時間の無駄で、実際のところ今あることにその場しのぎで対処していくほかない。
「み〜どりっ」
学校からの帰路、ひとつめのバス停でミドリを待っている声。
紺色の特徴的な制服を身にまとった藍が、教科書を片手にベンチに腰を下ろしている。
「一緒に帰ろ」
ぱんっ本を閉じて、首がちょんっと可愛らしく傾く。ようやく聴きなれはじめた声にミドリは笑顔で応えた。
あれ以降、アイとはたびたび顔を合わせている。
学校こそ違うが、幼馴染というくらいだから家もそれなりに近いらしく、別段珍しいことではないのだろう。むしろ今まで遭遇しなかったのが不思議なくらいだ。
といってもアイはついこの間まで電車通学だったのを、たまたま翠と再会してからバス通学に変えたらしい。
電車の方が一駅だけで道は覚えやすいのだが、立地の関係でどうしても遠回りになってしまう。だからもとからバス移動にしようとしていたらしいのだが、広島は大通りに路面電車が走っている分、バスのルートが複雑でわかりにくいのだそうだ。
「どうしても乗ろうとすると、前の学校の駅で降りちゃうんだよね……」
アイはこの春家の都合で転校したらしく、去年までは翠と同じ高校に通っていたらしい。詳細は知らない。過去を掘り返すのは嫌だし、なんとなく藍も聴いてほしくなさそうだったから聞かなかった。
そういう、ひとの機微に気付くのはわりと得意な気がしている。
「ミドリ、今日早いね」
「あー、うん。うち明日までテスト期間だから」
「自信ありげ?」
「どーだろう…、まぁまぁかな」
とんとんとベンチに促されて5分ほど会話をはしらせると、ようやくバスが来る。
アイが足早に空いている席に座って、ミドリもそれに続いた。
乗客のほとんどはミドリと同じ制服を着ている。そのことにミドリは肩身が狭くなるのを感じた。
「元気ない?」
「そういうわけじゃないけど……」
「わけじゃないけど、考えこと?」
「そんなところかな」
アイと出会って半月が経つが、ミドリはこの少女を計りかねていた。
ミドリに対する彼女の反応はいたって自然。いままでのひとたちのように取り乱すこともなければ、避けるようなそぶりもない。
マイペースというのか、気持ちを張り詰めていたこちらがため息をつく。
いったいこの子は何を求めてわたしに近づいてくるのだろう。
アイはその後も何度か話しかけてくれたが、うまく会話は続けられているだろうか。
正直、怖い。目的がわからないぶん、なおさら。
ただわかるのは、これが彼女たちの日常だということ。アイと百川ミドリの。
それは彼女の目を見ればわかる。
そう悟った時の心は裏腹。アイにとっての日常が私と同義ではないことに苛立ち、それが欲しすぎてくらくらする。
バスは路面を走る昔ながらの沈滞電車を追い越し、中心街が見えてくる。整頓されたごちゃつき。それがミドリの抱く本通りという街だ。
繁華街、中華街、パチンコカラオケ商店街。
街という街の要素をそれぞれの通りに並べたここ街はすれ違う人混みのように一列一列が互いに他人行儀の冷たさを孕んでいる。
乗り換え先でバスを降りて、再び乗車。川沿いを大きく迂回しながら橋を渡るとようやく家から程近いバス停に到着だ。
「はぁ〜ようやくついた。意外と長いんだよね、移動時間」
ひらひらと片手を振らつかせる藍に、翠も同意する。
「もうちょっと直線的にバスが動いてくれればなー。広島ってほんと車と自転車以外にまともな移動手段がなくて困っちゃうよ」
「確かにそうだね。アイは自転車通学は考えなかったの?」
「む。わたし自転車乗れないもーん」
「え」
「なんですかその目は」
「あ、いや…」
「ふんだっ、いーもんね! 自転車なんて乗れなくても」
「ごめんて」
「いいもん、ミドリにはわからないもんっ。昔から運動神経いいし、なんでもそつなくこなしちゃうし!」
梅雨の予感を漂わせる絨毯みたいな雲が一瞬止まる。
何気ない会話が窒息した。
「……そなんだ」
「そうだよ! ミドリは昔から何事もそつなくこなすからね。ほんと、その才能の半分でもわけてほしい!」
無意識に出た言葉だったのだろう。悪気がないのはわかっている。
「はは……そんなことないでしょ」
正直ピンとこなかった。私はそんなに万能だったのか。
それにこれは記憶をなくすまえの私だ。いまの私がかつてと同じであるとは限らない。
「でも知識や身体機能を司る器官は記憶の器官とは全くの別物だから、記憶喪失関係なくミドリはすごいんだよ」
「へ、へえ……」
くりっとした瞼が近づけられる。汚れなど一切ない、綺麗な瞳。
そしてその目に映る自分自身をみて、唇を強く噛む。
「どうしたの?」
顔の前で手を振られ、自分がぼんやりしていたことに初めて気付いた。
瞳を覗き込んでくる藍の紫を帯びた漆黒に意識が吸い込まれる。彼女は「もうっ」と口をすぼめた。
「またぼーっとして、そんな調子じゃまた事故しちゃうよ!? わたし、すっごい心配したんだからね? ほんとだよ!」
「あ、うん……ごめん。気をつける」
まったくと顔を膨らませて御立腹な少女に苦笑って、ほんとに反省してるのかというように藍はため息をついた。
「……もう、最近ミドリは変だよ」
私にとっては最近しかないけど、心の中だけで返事する。
きっとまえの私は明るく気さくで悩みごとなんてなかったんだろうな。羨ましい限りだ、本当に。
そんなことを考えていたからだろう。思ってもみない言葉が強く耳にはいった。
「ほんと、ミドリらしくない」
不意に。ほんとうに突然、肩の力が抜けた。
茫然とどこを視るわけでもなく視界がズレる。掌を溢れた鞄がアスファルトに墜ちる。
がつんと頭を殴られたかのような感覚がした。
「だまって」
口ごもるような囁きだった。
キツく、苛立ちの籠もった喉が震える。やってしまった。
振り向いた藍は一瞬、私が何を言ったのかわからないといった顔をしていた。
「……もう、だまって」
そのことが腹立たしくて語尾が濁る。押し込めていた感情が一気に破裂する。油断すれば、きっと泣いてしまうだろう。
微かに目を瞑って、またすぐにまたたく。
すうっと嗚咽を殺すように息を吸った。
「――ミド」
「ねぇ、アイ」
ビクッと小さな肩がふるえる。罪悪と不快が綯い交ぜになった言葉を舌で回し、奥歯をかみ伏せた。
「アイ、私ってさ」
「どうしたの……らしく、ないよ……?」
らしくない。言葉の意味がひどく滑稽で鼻であしらう。
「らしくないって……なに? ねえ、アイ。私らしいってなに———?」
声がわなないて震える。掠れた声から逃れるように目を伏せた。
「だって、つらいだけじゃん。こんなの……」
そこで涙腺は限界に達した。ぼたぼたと情けなく雫が落ちる。
自分ひとりだけ取り残されたまま、延々と知らない自分を聞かされる。そんなもの拷問以外の何ものでもない。
まるで『いまのお前は偽物だ』と言われているのと同義。
ああ、だから私はひとりになったんだ。
言いながら深い納得があった。それはミドリ自身いままで疑問だったこと。埋まったはずの孤独に満足できていない自分への解答。
出会ってから延々、藍の話の大半は私のことだった。勉強が得意、スポーツが上手い、一緒にいった花火大会。そんな他愛のないことをべらべらと。
その時の藍の表情はとてもきらきらしていて、唇を噛むわたしのことなんて見もしない。
きっと彼女のなかでは、今の私も、親友の『百川翠』の延長なんだ。
ふざけやがって。ふざけやがって。
私にとって藍はどこまでも他人で知らない誰かだ。多少時間を要したところで、その事実は変わらない。
「私はいったい誰なの?」
ずっと押し殺していた、けれどもう耐えられない問いが嗚咽と涙を溢れさす。こんな自分が嫌だった。
居場所がない。独りぼっち。
誰かに縋って何もかも吐き出してしまいたいのに。甘えたいのに。それさえも赦されない。
そんなの—————そんなのあんまりだ。
「もう、関わらないで」
せり上がった胃液を呑み下しながら吠える。吠えて、吠えて吠えて。結局なにも変わらなくて、変えられなくて。
嗚咽混じりの別れを残して踵を返す。
これで彼女との縁は終わってしまった。私は本当にひとりぼっちになる。
でも同時に、それでいいとも思った。延々とミドリを求められるのはもう限界だ。
振り返ろうともせずに足幅だけが速くなる。
けれど、二の腕に触れた指がそれを制した。アイだった。
振り払おうとしたが、思ったよりも強い力に逆にあっけなく体が傾いてしまう。体勢が180度回転して、真っ正面にアイのもとへ帰還する。
開いた手のひらを埋めるように、指が絡んだ。
行動の意味が分からなくて、咄嗟の判断に迷う。
鎖のような髪とシャンプーの匂いが私の頬に触れた。
そして私の唇に。
瞬間、甘さが広がった。湿り気のある柔和なルビー。香水なんて知らない果実みたいな香りが舌を絡める。
反射的に抵抗した。だが振り解こうにも、抱きつくように密着された状態では叶わなかった。
舌が痙攣する。息をするのさえ苦しくなるくらい熱が唇を吸い付いて来る。
何時間経っただろうか。いや、おそらく何秒の世界だ。なのに弾けそうなほどの揺れ動く瞼や吐息。寄り添った異なる二つの体温が、ミドリから時間を忘れさせた。
言葉にならなかった。なるわけがなかった。
触れたことのない感触が離れていく。口の先に再び体温が走る。さっきとは違う指の冷たさをつれて、まどろんだ瞳が見つめ返してくる。
意味がわからなかった。
握られたままの別の誰かの体温は、背伸びがちの汗を滲ませる。
「————え」
「もうがまんできないよ……」
どうして。そんな顔をするの。
まるで裏切られたみたいな、それでもなにかに願うような瞳。夕陽の風に飛ばされた花弁は春よりも早く消えていく。
同じ世界にいたのに同じ場所に生きているのに、私たちの距離はあまりにも遠い。
「私たちね、恋人だったの」
戸惑いも困惑もすべて置き去りにして、熱だけが残った。
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