第5話『 Melancholy 』

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第5話『 Melancholy 』

 ずぶ()れの心を洗い(なが)す方法はないのだろうか。  ――ごめん……びっくりしたよね。  そう言い残して(アイ)()った。  彼方に消えるその背中(せなか)(ミドリ)呆然(ぼうぜん)と見つめることしかできなかった。  耳を()つ水音で意識を(もど)す。  強すぎるシャンプーの香りがクラクラする。水に打たれるとどうしても悲嘆な考えに惹かれてしまう。  ばっしゃーんという水しぶきののちに一気に頭までお風呂に()かる。体を(うずく)めて無気力に(しず)んでいく。  イルカの祖先(そせん)(りく)(きら)ったように、嫌なこと全部()()りにしてのぼせたい。あるいは、生まれる以前(まえ)の、母親の子宮に帰ったような心地よさを()りたい。  水はすべてを遮断(しゃだん)してくれる。音も光もいまはいらない。こぽこぽと鳴っていく(あぶく)に別れを()げて、(なまり)のように()ちていく。  ——(ぬる)い。  ぽちゃん。浮力に負けた眼球が茫然(ぼうぜん)(あわ)い照明を見つめ返した。(もや)が張り付いてよくみえない。重くなった髪は、誰かから後ろへ引っ張られるように拘束めいている。  勢いのない起き上がりに、水を吸った髪がちょろろと(したた)った。  なぞるように唇に指を(はべ)らせる。ほんのりと残る、湿り気と体温。  目を()とせば、ネイビーに着霜された水面から目が(のぞ)いている。曇ったガラス(びん)みたいな(いろ)のない()。 「—————っ」  かき消すように湯を出た。きっかり30分、心まで温めるには早すぎるだろうか。  頭のなかの低気圧はそう簡単に晴れてはくれない。服の好みも、大きさも、化粧水の良し悪しだって全然違うのに。  思ったよりも髪が()れている。2枚目のタオルに手を伸ばし、じんわり続く湯気の名残に違和感を覚えながら浴室を出る。  廊下に出てすぐ脇の階段まで足を伸ばす。後ろから聞こえる引き戸の閉まる音が僅かながら思考を右に()らした。 「———ミドリ……」  伸ばしかけていた足が自然と振り返る。なぜ———、という内心の驚嘆を気分が打ち消した。久しぶりに聞いた父親の(こえ)がタオル掛けにかかる。  (ふち)の薄い眼鏡から(のぞ)く人の()さそうな(わら)(じわ)。本来ならば、気さくに話しかけてくるだろう細い瞳は誤魔化すような微笑で(つぶ)れている。 「……な、んですか?」  ……()(わる)い。よそよそしさを隠しきれていない(トーン)にすいばりが()さる。憂いをタオルの陰に(ひそ)めて、顔を向けず答えた。 「いや………、その——だな」  父は茶化したような表情を変えないまま困ったように頭をかく。歯切れが悪そうに娘の目を(うかが)う。 「すこし、学校を休んでみないかな」  面と向かって話すのは何日ぶりだろう。取り繕った()()て、ああ、この人の娘なんだなぁって思えた。 「一度遠くへ行ってみよう。家族みんなで……雅樹(まさき)もいるぞ? 部活も始まる前だから大丈夫だって」  こんな私に話しかけるのに相当な忍耐を要しただろう。それはいま、自分の身体の強張りでわかる。  ほんとうに優しい人なんだって実感する。少しずつようやく慣れようとしてくれているのもわかる。でも—— 「ごめんなさい。いまはそんな気分じゃない」  ()てつくほどにタイミングが悪かった。  明日であれば違った返答ができたかもしれない。  でも今は無理だ。無理なんだ。とてもそんな余裕はないんだよ。 「そっか……。うん、いいんだ……」  父――は、明るさを崩さずに続けた。40を過ぎた笑顔は鼻筋からなぞったような皺がある。  咄嗟に視界をタオルで覆い、唇を噛んだ。  それ以上の言葉を持たないミドリは視線を外して階段を上がる。  目もくれず、ぴしゃりと閉めた扉が頬をうったように響いた。 「……………はぁ」  心底疲労した息が()れた。湯冷めするにはまだ早いはずなのに、体はずっしりと重い。  ベッドにへたり込む。ろくに髪も乾かしていないまま枕へと顔を蹲めた。  ようやく慣れてきた自分の匂いが鼻を押し入る。  ――私たちね。恋人だったの。  ああ、今思い出すなよバカ。余計頭がぐっちゃになる。  唇に手を添える。余韻を孕む熱はすべてお風呂に置いてきたはずなのに。  一人歩きした熱はいまだ頭を離れてくれない。  藍の、あの目———。  そこには何が宿っていたのだろう。  いくら思い出を、以前の関係を伝えたところでそれは無意味だ。もう元には戻れない。  そんなこと藍だってわかっていたはずだ。  ならどうして彼女は動いたのか、なにが彼女を突き動かしたのか。  私に向けたものではない感情、私を見ていながら限りなくその存在を無視したもの。  けれど不快感は湧かなかった。そればかりかわたしは咄嗟、言いようのない胸痛を覚えた。  まるで心臓にひびが入ったのかのような名前のない感覚。 「…………」  呆然と天井を(あお)ぐ。伸ばした腕が、差し込んだ月明かりを意味も無く握りつぶす。  知りたいと思った。    そうまでして彼女を突き動かした何かを、捕まえて確かめたい。    そうすればこの虚しさも埋まるのだろうか。    なんとなくそんな気がして、そのまま目を閉じた。
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