10人が本棚に入れています
本棚に追加
第6話『 mellow 』
翌日まで持ち越した眠気にあくびが漏れる。
あまり眠れなかった。おまけに、ろくに髪を乾かさなかったツケで、頭は大惨事を催していた。
寝ついた態勢が悪かったらしく、起き上がった時の髪は食品サンプルのナポリタンみたいに固まっていた。これでは寝違えなかっただけマシだろう。
鏡とのにらめっこは時間ギリギリまで続き、そのおかげで運悪く微妙な空気の父とでくわす、なんてシチュエーションは免れた。
代わりに、とても急いでいたからお昼を忘れてしまったけど、一食くらいならどうにかなるだろう。
「……ふ、ぁ」
いつもより重い目蓋を持ち上げる。だるけが肩にのっそりとかかっているようだ。
少し熱っぽい。頭がぼうっとするのはそのせいか。
桜はもう葉を伸ばしはじめている。
川辺の冷気に体を震わせることもなくなっていた。
天気はとても心地いいものなのに生憎、今日は天敵だ。
本音を言えばいますぐ回れ右してベッドにダイブしたい。
再び波のきたダルけに身震いしながら軽く伸びをする。
「おい、レンっ。前視ろっ!」
頭のてっぺんまで腕を伸ばしきったところで、背中から慌てたような声が掛かった。
「……ん?」
声に反応して振り返る——よりもまえに、重みがのしかかってきた。
おっ、という間のあいだにぐらついた足元があっけなくバランスを崩す。
「わ」
前屈みになった身体はそのまま地面に落下———なんてことはなく、躓いたもののすぐに足並みを揃えて転倒を回避する。
代わりに、後方でごちーんっという盛大な音。
「………???」
状況がわからず辺りを見回して、ようやくうめき声をあげる足元に気づいた。
「………いっ、ッ」
鈍痛に怯んでいるのはやはり人だ。ぶつかってきた勢いは些細なはずだが、この様子だとその限りではない。
てっきり女の子でも転ばせてしまったかに思えたが、見て意外、それは少年だった。
尻餅づいた手がざらついたアスファルトの上で異様に白く見える。
制服からして同じ高校の子だろうか。男子にしてはずいぶんと華奢だ。
「………あの、大丈夫ですか?」
一応ぶつかってきたのは彼だが、この場合こちらが手を貸すのが筋だろう。
通学路のど真ん中で人の目も多い。なるべくトラブルは起こしたくない。
そんな思いが顔に出てか、少年と目が合ったとき彼はわずかに怯んだように唇を噛んだ。
「……ごめん」
ゆっくりと手が払われる。消え入りそうな声だった。伏し目がちに逸れた横顔になんとなく意識を引っ張られる。
強い向かい風にあったみたいな生毛の逆立ちを覚えた。
彼は懇意はきちんと受け取りつつ、しかし確実に意思をもって手を取ることを拒んだ。
「前みてなかった、ごめん」
自力で起き上がり、もう一度唱えるように繰り返す。
綺麗な子だなと思った。遅すぎる変声期。ぱたぱた埃を払う仕草は子供っぽく見える。そのくせわずかな動きでも髪が左右に揺れる。簾みたいにかかった目元は、どことなく艶やかにうつった。
つくりものじみた滑らかさは細い顔立ちを鮮明に引き立て、生まれつきに思える顔色の悪さは一般的な男子高生のそれとは大きく異なる。
普通の光でも眩しいのかいつになく微睡んだ目だ。
「………………」
なんだろう。ひどくもどかしい。
もどかしい? 自分で思っておきながら首を傾げた。
瞬間的な評価にしては、反応に困る表現だ。まだ頭が完全に起き切っていない所為なのか。
少年は方はさっさっと服を整えて地面に落ちた鞄に手をかけていた。
呆然とその挙動を眺めなていくなかで、ふいに口が溢れた。
「初対面でいうのもなんなんだけど———」
もう少し食べたほうがいいよ?
ありきたりな、たぶん失礼にあたる言葉だったと思う。
「お肉とか………あとお肉とか。それに、身長もあまり足りてないみたいだし、牛乳も飲まなきゃ。イチゴミルクとかでもいいと思うけど」
いきなりそんなことまくし立てる自分に内心、翠自身が驚いた。
予期せぬ奇襲に少年のほうも口をぽかんとあけて、しばらく固まっていた。
自分でも意外なほどすらすら言葉が出た。こんなに饒舌になったのは初めてかもしれない。
不思議と、羞恥心とか、遠慮とか一切考慮していなかった。たぶん、冷静になったあとで振り返れば激しく悶絶するんだろう。
「………っぅ、ぷははっ——なにそれ」
少年はなおも豆鉄砲を喰らったような顔をしていたが、唐突に吹き出した。
ムスッと腹を立てるわけでもなく反応に困るわけでもなく軽快に笑った。おかしさを堪えるように体を丸め、肩をプルプルと奮わせる。
…………やがて。
水面から浮上するように、あどけない笑みが顔を上げた。
「初対面の子に、そんな大真面目な顔で言われたの初めてだよ」
不意打ちの笑顔に、ぼおっと熱がむせた。
妙な照れ臭さが遅れて羞恥を連れてくる。
「レン、いくぞ」
遅れて後ろから、スーツ姿の男が少年を呼んだ。地毛なのか、刺々しい頭を掴むように掻いて、校門のほうへ向かっていく。
レンと呼ばれた少年はもう一度制服をはたくと、今度は鞄を拾い上げて最後、ミドリへ向き直った。
「ご忠告どうも。名前も知らない村人Aさん」
いたずらっぽい表情のわりには疲れているように見えた。それはたぶん、ずっと使ってなかった筋肉を動かすようなぎこちなさで。
反応する頃には、もう少年はいなくなっていた。といっても、向かう先は同じなのだから、いずれどこかでまた会えるかもしれない。
「………」
面識はない、はずだ。だというのに、この胸騒ぎはなんだ。
胸の奥がきゅうっと痛む。
やはり今日は調子がおかしい。
力加減を間違えた強張りに、翠はただ戸惑うばかりだった。
最初のコメントを投稿しよう!