第7話『Glass of Drunk』

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第7話『Glass of Drunk』

 結局、道すがら(あい)と出会うことはなかった。  バス停にも顔を見せず、そのまま学校まで着いてしまう。  正直ほっとしている。昨日の今日で合わせる顔がない。  久しぶりのひとりぼっちの登校日。案外、寂しくもないものだななんてため息をつく。  昼休み、ぬうっと漂う雲を眺めながら売店で買ったサンドイッチを頬張る。  意外とイケる。  甘辛い鶏肉ととろっとした半熟卵がパンに絡んで、あっという間に一切れなくなる。  運動部が好きそうな味付けはさらに空腹を呼び、すぐに二切れ目に手が伸びる。  いままであまり足を運ぶ機会がなかったが、今度からはもう少し足を伸ばしてみよう。  いちごミルクの紙パックにストローを刺して、一服。満足げな笑顔だ。  普段食べものに対してあまり関心を抱かなかったけど、これはいい発見だ。   思えば、翠は食事に対してあまり良い印象を抱いてはいなかった。それは病院食にはじまり、会話の生まれない両親と同じ食卓を囲んでいたことに起因している。    毎日欠かさず作られている母の弁当でさえ、申し訳なさでまともに味を楽しむ余裕などなかった。    考えることが多すぎる。だからこそこうして時々ぼうっと空を眺めたくなる。  誰も近よりたがらない旧校舎の屋上。そこが翠に設けられた唯一のセーフティゾーンだ。普段はここで時間ぎりぎりまで暇を潰している。  教室にはあまりいたくない。授業の間はただ時間が過ぎていくのを待つだけだが、休憩時間はそうはいかない。  否が応でも、仲睦まじい他人の姿を見る羽目になる。  久々に直に感じる孤独。  おもえば藍と出会ってからは、それなりに充実していたのかもしれない。  外部とはいえ、繋がりのひとつも持っていればそれだけでひとりが辛いだなんて思わなかった。  寂しくはない。わたしはあの子を拒絶した。  でも恋人だったという事実を聞かされて、なぜだか無性に胸のあたりが苦しくなる。  今朝もそうだったが、やっぱり今日のわたしはおかしい。  サボりついでに保健室にでも寄ろう。  スマホの時刻を確認して、ぱぱっと昼食を片付ける。  廊下のタイルに冷やされた空気が追い風のように脚のあいだを抜けていく。  本校舎へ戻ると、例の如く学生は廊下のすみずみまでごった返している。グループで集まって談笑、学食の大食い対決。馬鹿騒ぎ。  そんなのを横目に自然と一歩が早くなる。  最初からツんでいる椅子取りゲーム。どこもかしこも埋まっていて、私の入る隙間はない。 「百川さん大神(おおがみ)先生が呼んでたよ」 「わ」  前方に突然ぬっと現れた女の子にあやうくぶつかる。  やわい衝突。私よりも頭ひとつぶん小さな女の子は鼻先をシャツに引っ掛けて抗議の目線をむけてくる。 「ごめんっ」  一歩退(しりぞ)く。女の子の首が上下に動いて思ったよりも大きく髪が揺れる。整えて日が浅いボブのナチュラル毛は染めてもいないに綺麗な発色だ。  確か……同じクラスの子だ。話したことはあった、ような気がする。  それにしてもひどい(クマ)だ……  見た目の可愛らしさと裏腹に目下が大変なことになっていた。メイクでは絶対にでないような青暗さが半月状に張り付いている。  ミドリの表情に気づいたのか、ああこれ、少女はと目元を指でさらった。 「ちょっと徹夜してて…気にしないで」 「ああ、うん」  その表情には疲れというよりもどことなく誇らしさがあった。 「それよりさっきの話。大神先生が呼んでたよ」 「大神(おおがみ)——?」 「担任だよ。職員室に来てくれってさ」 「なんだろ………」 「さぁ」  それじゃ、言ったからねー。顔の横で手をひらいて女の子は離れていく。別れ際、襲ってきた大きなあくびを器用に隠していた。 「あ、ちょっとまって!」 「うん?」  思い出したようにポケットに手を突っ込み、女の子を追いかける。  手ぶらな女の子の手を掴むとそのまま握らせるようにポケットから取り出したものを渡す。 「はいこれ」  目薬、ちょうど持ってきてたんだ。  本当にタイミングがいい。寝不足でも役立つことってあるんだな。  家の洗面台からひったくってきたものだが、使うよりも早く体が起きてしまった。 「良かったらつかって」  不要なものをヒト様にあげるのは失礼な気もするが、この際もったないから使ってもらおう。 「—————」  そんな2割もないくらいの善意に対して女の子は不意にくしゃりと顔を歪めた。 「……どうかした?」 「ああ、いや——」  でもそれは一瞬のことで、すぐに疲れ目の笑顔に戻る。 「ありがとう」  大切にしまうようにそっと手が離れる。翠が翻ってからもそれは変わらず、大切に大切に手元のそれを抱いている。  あの子の名前は………なんだっけ。    ◇ ◇ ◇ 「失礼します——」  扉を開けてすぐに、入れたてのインスタントコーヒーが鼻を(くずぶ)った。香ばしさとエアコンのカビ臭さが混じった独特な匂いに包まれる。    名前を告げると壮年の教師が指を後ろに向けた。そこが担任の机らしい。  遠目から見てもわかる書類の山に、刺々しい頭が覗いている。なんとなく見覚えがあった。    いそいそと近づいてみると、やっぱり今朝少年に声をかけていた男だった。    担任だったのか…通りで見覚えのあるわけだ。 「来たな」  翠に気づいた狡噛はなんだか今朝よりも生気がない。 「あ、お邪魔でしたらまた今度でも……」 「あー、これは私情だ。気にすんなっ」  椅子をくるりとこちらへ向けて、八重歯を覗かせる。見て目よりも明るい性格なのか、少年のような笑みに、今朝のような尖った印象は見受けられない。 「あの先生、それで話って?」 「うん、ちょっとな。ここで話すのもなんだからすこし場所を変えっぞ」 「あ、はい」  そういって大神は立ち上がると、翠をとなりの個室に案内した。  なんのことかさっぱりだが、部屋を移すくらいには大事な話のようだ。  来賓用の応接室らしく、入ってすぐ高そうな低椅子に促される。    むずむずと緊張が奔る。なんだか居心地がわるい。 「あの——っ、それで話って……?」  教師はポットからお茶を入れて、すっと翠の前においた。 「お、茶柱」なんて自分の分を飲み干しながら、おずおずと言いにくそうに目を逸らす。  こちらの様子を伺いながら、言葉を選びかねているようだ。  けれども呼吸を少し整えると、うって変わって鋭い目を向ける。 「ああ、言いづらいことなのはわかってる。進路の件だ」 「……進路ですか?」  聴きながら翠は話の意図が掴めずにいた。  高校2年のまだ4月だというのに、いきなりなぜそんな話をするのだろう。  うちはそんなに進学校というわけでもない。部活を優先的にしている生徒も多い。 「どうしていま、なんてのはわかってる……。お前の事情は俺たちも把握している。今のお前には他のやつらが何となく固めてきた自我や目標ってものがない、と俺は思ってる。だからこそ、早いうちから考え始めてほしくてな」  こんな話でごめんな。  言い終えた教師の乾いた笑みが翠の胸を浅くえぐる。湯呑みを持つ手に力を込めながら、大神は続ける。 「なにかやりたいこと、今のおまえがしたいことってないか? いま答えを出さなくてもいいから考えてみてくれ」  言葉に(きゅう)する。ごんっと頭をなにかで殴られた気がした。  そうだ。進んでいるんだ。どれだけ私が立ち止まっても歩む方向に迷っても、あとからあとから追いかけるように時間は過ぎていく。  そんな当たり前のことをいまの今まで忘れていた。  ぞわっと全身の毛が逆立つ。  重く現実がのしかかってくるのを翠は感じずにはいられなかった。  指先が震えていた。教師の言葉の通りだった。  自分という存在すら今の翠にはあやふやで、そのうえ未来のことなんて考える暇もなかった。  でもそうも言ってられない。  唇を強く噛んだ。俯いて、懸命に溢れそうなものを堪える。  そんな翠を見かねた教師は、参ったなといった表情で頭をぽりぽりと掻いた。 「そんなに気負わなくてもいい。俺だってこの仕事に着くまで転職してるし、いまも転職を考えてる」  けろっと笑った彼の人懐っこそうな眼を翠は視ない。 「一つ、いいですか」  質問といいながら、もうその目は湯飲みすら見えていなかった。 「以前の私はもう自分のやりたいことを決めてたのかな……」  その言葉に教師はすぐには応えれなかった。ぎゅっとテーブルの下でズボンを握りしめる。  それが答えだった。だがそれはあまりに残酷で、当人が知る必要のないものだ。 「多かれ少なかれ、それはあったかもしれない。だけどな百川、それは今のお前の道じゃない」  教師は言って、言葉の半分も彼女に届いていないだろうことを理解していた。  だけども続けずにはいられなかった。真っ直ぐに翠を見つめる。 「人生は長い。それは君も前の君も変わらない。だからこそ、いまの君がやりたいことを探すんだ」  すっと一枚、机の紙が緑に向く。なんてことのない進路用紙だ。 「これはほんの気持ち程度に書いてくれていい。ほとんどやつらは何も考えずに進学って書くしな。君のほうがよっぽど未来のことを考えてる。  君はもう前の君じゃないんだ。そのことを自覚しなさい。たとえ周りが過去の君に固執しても、君だけは前に進むんだ。君自身のために」  でないと、過去に置いていったものまで救われない。  沈黙が流れる。胃を圧迫しそうな重い停滞だ。教師の眼差しを翠は逸らすことしかできなかった。  チャイムの音が遠目から聞こえる。 「———失礼しました」  その音に紛れるように、足早にそこを出た。  教師は止めなかった。がたんっと強めに扉が閉まり、ため息を漏らす。  翠のいなくなった室内で一人、大神は絞るように吐いた。 「無力だなぁ」  たったひとりの生徒でさえまともに導けないなんて。  生徒を笑わせるはずの目は、湯気のないお茶を眺めるので精一杯だった。
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