第8話『眼のなかの雪』

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「はい、紅茶。さっきのは冷めちゃったから」  ようやく流れが()んで、涙が途切れると、再びカウンターに促された翠はもごもごとまごついていた。 「……あ、ありがとうございます……」  や、やばい。人前で泣いてしまった。  恥ずかしがる気力を取り戻した彼女は、思春期特有の黒歴史的身悶えを発動していた。  もうお嫁にいけないとか抜かす始末だ。  そんな彼女に、エプロンを新調した店員は何事なきといった涼しい笑みで余っていたチーズケーキを用意していた。  やわらかい笑顔を向けてくる彼女になんて返せばいいか解らずに、入れ直してくれた紅茶をおずおずと啜る。  新鮮な香りが口のなかに広がる。口に何かいれてホッとしたのか、ようやく翠の顔に笑顔が戻った。 「おいしい?」  女性の微笑みに元気よく「はいっ!」と応えられれば、もう安心だろう。 「あの絵の名前は『眼のなかの雪』」  かつん、と取り揃えたチーズケーキを添えて、店員が口を開く。  そのままカウンターに出てると、翠の隣に腰掛けた。 「――ひとってさ。忘れる生き物なんだ。辛いことや哀しいこと、いつまで経っても覚えてたら疲れちゃうでしょ? だからさ、辛くなったら泣いていいの。たくさん泣いて、涙で全部洗いながして明日からまた頑張るぞ〜! って、そうやってできてるの」  だからさ、頬杖を突きながら独り言を語るように彼女は苦笑う。 「周りに頼れなくてどうにもならなくなったら、ここでいっぱい泣けばいい」  少女の(ひとみ)をりんと見つめる、ちょっぴり大人の優しい()。  そこで始めて、いや、ようやく。私のなかの張り詰めていたものが取れた。  文字通り、肩の重荷が取れる、心からの安堵。 「わたしは(みさき)矢墨(やすみ)みさき。この喫茶店のオーナー。定休日の火曜以外はここにいるから、いつでもおいで」  再び目尻に溜まる熱を、指で掬って。はにかみは姉のように身をつつむ。  もう涙を拒むものはなにもなかった。    ◇ ◇ ◇ 「お代はいいよ」  会計の際、すっかり打ち解けた岬が思ってもみないことをいった。片手には半ば強引に渡された紙袋。なかには美味しそうなサンドイッチが入っていた。  岬は、その料金さえもいらないという。 「――いや、そういうわけには……」 「いいさ、今日はとくべつ。ひとの好意は快く受け取っておくものだよ?」  うぐっ、と対応に困ること言われて渋る翠に、くすりと明るい笑みを向けてくる。 「だから今日はまっすぐ家にお帰り。君には家で君の帰りを待っていてくれる誰かがいるんだから。あったかいお風呂に入って、ゆっくりお休み」 「……はい」  あのあと、自分の身の上を打ち明けたミドリの苦悩を岬は何も言わず聞いてくれた。岬はとくに意見を述べたわけでもないが、聞いてくれる誰かがいるだけで充分すぎることだった。  こうであれと意見を押しつけるのではなく、私を思って最善を語ってくれている。  彼女の声と醸す雰囲気には拒む気持ちも湧くはずがない。 「ありがとうございま――――すっ!?」  深々とお辞儀をしたミドリの華奢な四肢を、大人の腕が引き寄せる。ほつれた糸を引っ張っるように、抱き寄せられた少女は一瞬、なにが起きたかわからなくてどぎまぎする。  この温かさとブレンダーな香りに意識が溶けてしまいそうだ。 「だいじょうぶ。ミドリは強い――。ガンバレ」  いままで誰もくれなかった心からの声援(えーる)。  耳元で囁かれたその言葉は、何度も何度も胸を満たして翠の内に染み渡る。  紅潮と高揚で無重力に浮く足をぶらつかせ、ぎこちなく店を出る。  来て良かった。また来たい。そして、次はもっと元気な自分をみせたい。  ところがそこで、あれっ? と不意に首を傾けた。反芻した言葉のなかでひとつ、引っかかるものがある。 「そういえばあの人、なんで私の名前知ってたんだろ――?」  答えに辿り着くころには、記憶は戻っているだろうか。なんとなくそれは(いや)だな、と思ってしまう。
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