第1話『glad eye』

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第1話『glad eye』

 朝倉康介(あさくらこうすけ)はひどく()っていた。七杯目(ななはいめ)のロングカクテルを飲み干して意識(いしき)(うしな)いかけ、ゴンっと(たた)きつけるように()いたグラスが店内に広がるジャズを(さえぎ)った。  途端(とたん)、カウンターでグラスを片付ける沙優(さゆ)眉根(まゆね)がピクッとつり上がる。 「そのへんにしときなよ」  美人な顔からは予想もできないドスの()いた声に、反射的に謝ってしまう。どんなに酔いが回っていても、怒らせてはいけないひとは理解しているようだ。 「そんな事言ったって、()まなきゃやってらんないっすよ…」  けれどもこちらも()っている。なけなしの言い訳をぼやき、それでも今度はゆっくりと酒を(あお)る。  ライトグリーンの液体が火傷に似た冷たさを伴って、だらりと(すべ)()ちる。クセのある(かお)りが(はな)()たし、ツンとした痛みが頭のギアを()かしていく。  そのまま()()してしまおうかと思ったが、目前のバーテンダーを(とら)えた(ひとみ)最後(さいご)理性(りせい)を取り戻し、ごくんっと()み込んだ。 「っ、……くそ」度数の高さを思い出しながら強引に目元をこする。  遅れてやってきたミントの風味に乗せられて、()めていた言葉が()れた。  もう限界だと首がテーブルにもたれる。  二、三度咳をして喉の痛みを覚えた。 「飲めないくせに」  片肘をのせて、ポニーテールを解いた沙優が呆れる。カウンターはすでに片付いていた。  片付かないのは、俺だけ。酔いを勢いに睨んだが、目はたるんで覇気がない。  すねた子供がそっぽを向くようにグラスをピンっと指で跳ねる。  苛立ちとは裏腹にからんっと、氷は軽快に割れた。  途端、自分がひどく惨めに思えて堪えきれず頭をむしった。ぐっと力ない嗚咽がテーブルに落ちる。  そんな康介を責めるわけでもなく見下ろしていた沙優は、つまらなそうに息を吐くと一転して、愉快に喉を鳴らした。 「なに、何人目だっけ?」  一番聞かれたくない話題をピンポイントでする彼女に、いったいなんど殺意が湧いただろう。  だがすでに反論する気力もない。テーブルで頬を歪めながら、疲れたように見つめかえす。 「………四人目」  ぽんっとシャンパンの蓋を開けたように、沙優が吹いた。  いや、そんなゲラゲラ笑うなよ。乙女だろ、一応。  べつにだんまりを決め込んでもよかったのに、それをやらないのは逃げているようでなんだかムカムカする。  いまいち頭が回らない。  ぐちゃぐちゃな気持ちごと吐き出す勢いだったのに、勢いだけが空回って虚しさが一層深まる。 「ほんっとアンタって女運ないわ〜」 「この上まだオレのメンタルを削る気っすか……」  もはや意気消沈。抜け殻となった康介に対して、沙優は飲め飲めと促す。飲んだ酒の半分は彼女が注いでいる。 「まぁでも……、顔だけはそれなりにいいんじゃない?」  笑うだけ笑って、それでも流石に悪いと感じたのか。  柄にもなく世辞の一つでも寄こすのだから、危く卒倒しかけた。一瞬酔いが冷めかける。 「褒めったって沙優さんはオレのタイプじゃないっすよ」 「あン? アタシだっててめぇは好みじゃねぇわ」 「……っていうかマスターは?」  話を逸らすように、ダメ押しのカクテルを頼む。 「買い出し。もう帰ってくるから、それまでに帰りなよ。あんたといるとあの人まで飲み出すから」  沙優さんはこの店のマスターの奥さんだ。普段なら恰幅の良さをポロシャツ一枚に押し込んだおっさんが、幅1メートルしかないカウンターを埋め尽くしている。  ここのマスターとは大学時代からの付き合いで、入学当初はよく世話になった。店を出す時には微力ながら手伝いをさせてもらって、最近まではバイトもさせてもらっていた。  康介の卒業を機にバイトはやめたが、その関係が今も続いて足繁く通っている。  大学時代ラグビーで培われた剛腕から振るわれる酒と料理は絶品で、初めてきた客にはよく驚かれる。  そんな男が沙優ひとりの尻に敷かれてるわけだから、世の中ほんとにわからない。  ふたりの出会いはよく知らないが、見た目だけはモデル級の沙優をいったいどうやって捕まえたのか。こんど聞いてみよう。  美女と野獣。一見アンバランスなのに、なぜか帳尻が合っているというか…、とにかく仲の良い夫婦だ。  見た目ではわからないが、現在沙優のお腹には新しい生命も宿っている。  羨ましいと素直に思う。家庭にじゃない。その関係性にだ。  互いを支え合うといのは、当たり前のように思えてひどく難しい。  だからそういった他人の幸せに触れた時、どうしようもなく泣きそうになる。  だってそれは、オレには一生届かないものだから。  沙優の方はフォローしたつもりだったのだろうが、そんなものは康介に必要ない。  オレがダメな理由、そんなこと…最初からわかっている。  オレには——何もない。何もないんだ。 「優しすぎるのよねぇ、あんた」 「それは違います」  小さく、しかし明瞭な声で、康介は遮った。きょとんと首を傾ける沙優にわずかな緊張が走る。 「オレは、優しくなんてないですよ」  二度、噛み締めるように吐いた。その声があまりにも弱々しかったので「そう…」とだけ言って、沙優もそれ以上踏み込まなかった。  こういった引きの良さが、彼女がマスターとうまくやっている理由なのだと常々思った。  放り出されたグラスを傾けて、額に押し当てる。  オレがやさしい。そんな言葉、死んでも言われたくない。  やるせなさはもういない。康介のなかの虚しさはただ明確な怒りを帯びていた。  酒を煽るのはその所為(せい)だ。けれどどれだけ潰れそうになっても、やはり意識はどこか鮮明で、完全に酔い切れることはない。  むしろ酔いが回るほどに、思考はクリアになってあの時へとたどり着く。  どんなに意識を逸らしても、どんなに忘れようと思っても、けっして消えることのない傷口(おもいで)
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