空白の切符

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   差し出された切符を受け取る。  連なる枚数を適当に確認し、改札鋏でパチンと切り切符を返す。  青白い顔の虚な目の客は、のそりとした動作で切符を手に取り、電車に乗り込んでいく。  また、次の客が切符を差し出す。  事務的に、幾度となく繰り返す作業。  いつからやっていて、いつまでやるのかなどわからない。  そんな考えにすら至らぬほど、自分の中は『無』だった。  パチン、パチン、とただ繰り返す。 「先輩、代わりまーす。休憩行ってきて下さい」  横から鋏を奪われ、押し退けられた。  見ると、制帽をかぶった短髪の男が今まで自分がしていたように鋏を操り、手早く切符を切っている。 「げっ」や「うへぇ〜」と声を上げながら切符を見るのは、客に失礼な気もするが。 「先輩見てくださいよ。殺人! こいつこんな顔して人殺してますよ」  こいつ、と指したのは爽やかそうに見える青年だ。  生気がないのは、この青年に限った話ではない。  青年の後ろに続く人の列。  それは皆、自ら命を絶った者たちの魂だ。  彼らはこれから電車に乗り、あの世へと送られる。 「あっ、休憩行ってくださいね!俺もあとで行きます」  しっしと追い払われ、短髪の男は切符を切ることに集中した。  もはや切符の枚数など見ていない。客もまた、それを気にすることはない。  虚な目が写すのは目の前の電車、ただ一つなのだ。  ❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎ 「お疲れっすー。って先輩、そっち俺の席です」  駅員室にあった二つの席を、どっちが自分のだろうと考えたのは数秒だった。  ま、どちらでもいいかと座ったのだが間違っていたらしい。 「先輩また忘れてます? ほらこれ。俺は柳田」  柳田は机にある名前プレートと、自身の制服の名札を並べて見せた。  なるほど、と思いもう一つの机の名前プレートと、自分の名札を見た。  そこには『周』と記されていた。 (俺はシュウ、か) 「なんでアルツハイマー引きずってんすかねー。もう終わってんのに」 「終わってるって?」  意味がわからず問うと、柳田は大きくため息をついた。  制帽を机に放り、足を投げ出して椅子に座った。 「今日は一段とひどいみたいっすね。……終わってるってのは、俺も先輩ももう死んでるってこと。さっきの客達同様に」  そう言われて、ストン、とくるものはなかった。  ただ「ふぅん」と思うだけ。何も感じなかった。 「仕事のことは覚えてます? さっき普通にやってたみたいすけど」 「あー、まぁ。なんとなく」  頭がというよりは、体が。  単調な作業なので覚えてしまっているのだろう。  客が持つ切符の枚数はそれぞれで、それは人生の節目を表していた。  1枚目は『誕生』。  2枚目は『入園』。  3枚目の切符からは『進学』が続き、『就職』『結婚』と続いていく。  だが、ここにくる客は自ら命を絶った者達だ。  順風満帆な人生を歩んだ切符とは比べものにならないほど悲惨だ。  中には、3枚の切符だけで人生を終えた子供もいる。 「仕事のことだけ忘れてないならいいっすけど。やーでも、俺いなくなったらどうするんすか?」 「いなくなるのか?」  制帽をくるくると回す柳田を見ると、柳田は目線を上にやり「んー」と考えた。 「まぁ潮時かなとは思ってますよ。俺、もう3年はここにいるんで。そろそろ白い切符使ってもいいかなって」 「白い切符……?」 「あっ、次の電車。俺行くんで、先輩は改札窓口お願いします」  制帽をかぶり直した柳田は、改札鋏を持って駅員室を出た。  窓口から見える改札にはまた虚な目の客達が列をなしている。  キィィ———……。  電車の高いブレーキ音が聞こえると、柳田は客の切符を切り始めた。  ❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎  パチン、パチン、パチン、パチン。  虚な目で電車に乗り込む客に、無心で切符を切る自分。  幾度となく繰り返す作業はいつからやっていて、いつまでやるのか。  虚無の自分は、そんな考えにも至らない。  ただ事務的に切符を受け取り、鋏で切る。  誕生。入園。進学。進学。進学。就職。鬱。  パチン。  誕生。入園。進学。進学。いじめ。  パチン。  誕生。進学。進学。引きこもり。婦女暴行。逮捕。出所。婦女暴行未遂。  パチン。  誕生。入園。進学。進学。進学。就職。結婚。出産。子供の死。  パチン。  誕生。入園。進学。父親蒸発。進学。母親過労死。進学。DV。援交。窃盗。薬物。  パチ……。  切れなかった。  なぜ、と思い切符を見直す。 『アマネ ユキ 17歳』  12月、雪の降る日にアマネ家に誕生。  母は専業主婦、父は会社員。  それなりに裕福で、生活に困ることなくあたたかな家庭で愛情をたっぷり注がれて育てられる。  父は多忙だが、休みにはたくさん可愛がった。母は寛大で、多少のいたずらは優しく諭し叱った。  少々人見知りだが、友達は多かった。  ユキはまっすぐ純心に育っていった。  12歳の時、父がいきなり蒸発。  前触れはあったかもしれない。  多忙な中で見つけた時間はすべて家族に捧げていたのが当たり前だったのに、ふとした時にそれを忘れた。  気づくと知らぬ場所を歩いていたり、知らぬうちに家族といたり。 「ユキ」と呼ぼうにも、咄嗟に出てこなかった。  愛しいはずなのに、知らない子供に見えた。  俺はおかしくなった。  家族を忘れるなんて、どうかしてしまった。  苦悩して、苦しんで。  でも、それもすぐに忘れた。  ハッとした。  切符にここまでのことは書いていない。  書いてあるのは人生の節目のことだけだ。  一体、今のはなんなんだ。  目の前に立つ少女を見る。  虚な目、青白い顔に乾いた紫色の唇。  無造作に伸ばされた髪は痛んでバサバサで、胸元までの長さだ。  細い手足は無数の痣で埋め尽くされていた。  知らない顔の少女。  切符は両親の死と、非行の数々で締め括られている。  今までに何度も見てきた。同じような切符だ。  でも、この少女の切符だけは切ることができなかった。  なぜかわからない。  わからないけれど、体は勝手に動いていた。  駅員室に駆け込むと、自分の机の引き出しを乱暴に開けた。  中を漁り、次の段へ。書類がぐちゃぐちゃになろうが、とんでいこうが、どうでもいい。  驚いた柳田が声をかけてくるのも、どうでもいい。  引き出しをひっくり返してようやく見つけた『それ』を手に取り、止める柳田を振り切って少女の元へ戻った。 「これを持って、帰りなさい!」  少女に差し出したのは真っ白な空白の切符だ。  以前、柳田が話していたもの。 「お前はまだここに来ちゃいけない。帰りなさい!」  少女は虚な目を揺らすことなく、電車を見続けていた。 「頼む、帰ってくれ。辛くとも生きてくれ」  涙が溢れるのは、なぜだろう。  こんなに必死に少女に訴えかける反面で、冷静な自分が頭の片隅にいる。 「……(ユキ)!!」  少女がゆっくりと顔をこちらに向けた。 「……お父さん?」  虚な目の奥に、かすかに光が戻った。  空白の切符を押しつけて手に握らせ、電車の前から突き放す。 「お前は生きろ。その切符を使って、新しい人生を」 「お父っ——」  少女は眩い光に包まれ、一瞬で消えた。  あとに残るものは何もない。  少女が持ってきた切符も、いつのまにか消えていた。  虚な目の客達は起こったことに気付いていないように、変わらずに列をなしている。 「あーあ。良かったんすか?」 「何がだ?」 「先輩の切符。生まれ変わるのに必要なのに」 「……なんの話だ?」  隣に立つ制帽をかぶった短髪の男は一体、何を言っているのだろう。  目に入った名札を見ると『柳田』とあった。  同じく、自分の着ている制服を見ると『周』と記されている。 (シュウ、か)  改札鋏を持つと、なぜか手に馴染んだ。  体が慣れた作業だというように勝手に動く。  パチン、パチン、と並んだ客の切符を切っていく。 「……もうちょっとだけ付き合ってあげますよ、(アマネ)先輩」  パチン、パチン。  柳田の話は入ってこないが、切符を切る音は耳に馴染んで心地がいい。  続々と差し出される切符を、無心で切り続けていく。  いつからやっていて、いつまでやるのか。  終わりのない作業なのに、心は満たされていた。
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