お姫様の幸せには

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頬を襲った衝撃に歯が柔い肉を抉った。 じくじくと痛みだした頬と口内の鉄臭さを我慢して、深く頭を下げる。 「申し訳ありません」 何に対して謝ればいいのか分からないまま、謝罪の言葉を吐いていく。 口答えなんてもってのほか。ただ俺は頭を下げて、申し訳なさそうな顔で謝っていればいい。それが一番楽だ。 頭上から止むことなく降ってくるヒステリックな声から必要そうな単語だけを拾い集め、原因を探り始めたのはいつからだろう。 べったりとした赤い唇から吐きかけられる言葉に、苦痛を感じなくなったのはいつからだろう。 ただ頭を下げ、感情のこもっていない謝罪を機械みたいに吐き出す作業を繰り返すようになったのは、いつからだっただろう。 激しさを増す痛みとむせ返りそうなほど濃くて甘ったるい香水の臭い。 いつにもまして支離滅裂な罵倒を受け止めていれば俺の頭に何か硬いものがぶつかった。そのまま絨毯に落ちたのは、毒々しい赤色のマニキュア。 確か一週間くらい前、珍しく上機嫌だったこの人が、プレゼントされたのだと俺に見せびらかしてきた物だったはず。 無駄に華美なパッケージは、ブランドのロゴの周りや持つ所が中身と同じ赤色で汚れている。 それで察した。 これは『彼女』の仕業だろう。 「アンタがちゃんと面倒見ないからよ!! どうしてくれるの!?」 髪を掴まれ、固くて冷たい床に引き倒される。 抵抗はしない。許しを乞うたりはしない。それは悪手であると、身をもって知っているから。 一層甲高い声で喚きだしたこの人には もう聞こえていなくても、意味のない謝罪を吐き続けるのが、多分正解のはずだ。 切った口内も、蹴られた腹も背中も腕も足も。全部痛い。でも怯えも痛みも出したりしない。 耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ。 俺はただ、黙って耐えていればいい。 「ほんっと気持ち悪いっ!!」 血走った目。 歪に釣り上がる赤い唇。 鋭く尖って突き刺さる赤い爪。 口内から流れ出た血。 赤は、嫌いだ。
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