甘い死神

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 掃除と洗濯を終える頃には、すっかり終電を逃す時刻になっていた。板野が車で来たことに改めて感謝する。 「あ、コレ忘れてるぞ」  ソファに置きっぱなしになっていた紙袋を差し出すと、家主よりスッキリした顔の来客が「ああ、そうだった」と声を上げる。 「それ、受賞祝い。彼女と2人分と思って買ったけど…まぁ志朗なら全部食うだろ?」 「おお、サンキュー」  中身は有名店のバウムクーヘンだった。生地にチョコが練り込まれた逸品だ。これの手土産を出し損ねるほどの衝撃だったかと思うと、自分の散らかし様に胸が痛んだ。 「なぁ、どうせなら今食ってかないか?コーヒーくらい淹れるからさ」  背後のリビングを親指で示したが、首を振って返された。 「遠慮しないで好きなだけ食えよ。ちゃんと世間がお前を評価してくれたんだ、〝我慢するから人気作家にしてくれ〟なんて神頼みも、もう必要ないだろ」  救世主の背中を見送り、玄関の重たいドアを閉める。チェーンを掛けたところで、ふと手が止まった。  ーーー〝一人前の作家になるまでチョコは食べない〟。  ーーー〝チョコを我慢するから人気作家にしてくれ〟。  あの日、祠に手を合わせた時、俺が口にしたのはどっちだったか。主軸は同じだが、2つの台詞は似て非なるものにも思える。 「…まぁ、いっか」  慣れないことをした疲れで回らない頭が思考を投げ出したのに合わせ、踵を履き潰した靴を脱ぎ捨てる。漏れ出す欠伸を噛み殺し、今宵の夜食となった紙袋を手に、見違えるように片付いた廊下を引き返した。  建築現場での事故で板野が全治6か月の重傷を負ったことは、後日ネットニュースで知った。不運な事故は、俺の家に立ち寄った2日後の出来事だった。
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