失踪

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失踪

 藤が、藤が、藤が、  そんなざわめきで、夕は目を覚ました。  土曜の朝。本当ならうんと寝坊をするつもりだったのだが、純和風の作りのこの家は、防音性能がまるでない。  うんざりした気分で、夕は布団の上に身体を起こす。  こうやって目を覚まさせられるのは、時々あることだった。藤の咲く時期をとうに過ぎた今でも。  藤というのは、あの薄紫色の花のことを指すのではない。夕の父親の、愛人の名だ。  その藤の一挙一投足にこんなざわめきがつきまとうのは、いつものこと。  藤から離れたいという母の願いでこうやって父の住む家を出、別宅に住むようになっても、なおだ。  さて、今日は藤がなにをしたのだろうか。  薄ぼんやりとそんな事を考えながら、夕は寝間着のまま部屋の襖を開ける。  すると、ちょうど部屋の前を行き過ぎようとしていた陽子と目があった。  陽子は住み込みで家事をしている女中たちの中では一番歳が若い。夕よりも3つ年下の17歳だ。  まだ幼気な目付きをした陽子は、寝起きの夕ににこりと笑いかけた。  「今日は早いお目覚めですね。」  「昼まで寝ているつもりだった。……藤が、どうかしたのか。」  寝癖だらけの髪をかき回しながら訊くと、陽子は一瞬躊躇いを見せた。  藤は、父の愛人だ。夕の母はそのせいで精神を病み、夕を連れてこの別宅に越してきて、もう10年以上が経つ。  夕は陽子の肩をぽんと叩き、構わないから言ってみろ、と、先を促した。  すると陽子は、ちらりと周囲に目をやり、誰も近くにいないのを確認した後で、軽く背伸びをして夕の耳元に顔を寄せた。  「いなくなったんだそうです。昨日の夜中にお屋敷を出たようで。」  いなくなった?  夕は少し驚いて陽子の丸い目を見返した。  陽子は、こくりと一度、ダメ押しのように頷く。  藤は、15の年に父の愛人として屋敷にやってきた。そこから一切外の世界を知らずに10年以上暮らしていたはずだ。  そんな男が、今更屋敷を出て、どこか行くあてがあるとも思えなかった。  そこまで考え、夕は一つの結論にたどり着く。  それはこの別宅に暮らす女たちも同じだったようで、陽子は意味有りげに一度頷いた。その仕草は、まだ幼さの残る彼女にはそぐわず、夕は思わず苦笑した。  「なにを笑っているんですか?」  自分の隠しきれない幼さを自覚している陽子は、眉を釣り上げて怒った。  なんでもないよ、と彼女をなだめながら、夕は行き当たってしまった一つの結論を、頭の中で繰り返す。  藤は、死にに行ったのかもしれない。      
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