愛玩

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 藤は、浴衣を持ってきて、ズボンが乾くまでそれを着るようにと言ったが、夕は首を横に振った。はいたままでも乾くから、と。  なぜだか少し悲しそうに、藤が微笑んだ。  夕は、自分の警戒心が、このうつくしい人を悲しませているのだろうと、すぐに察した。でも、ここで服を脱ぐのは嫌だった。夏場なんか、いつも半裸みたいな格好でうろうろしているくせに。  どうぞ、と藤が丸盆に乗せて運んできたのは、硝子の器に入った冷たい緑茶と、分厚く切られた羊羹だった。  藤はそのまま、丸盆を挟んで夕の隣に腰を下ろした。  夕は身体の左側に感じる藤の気配に、妙に緊張しながら緑茶を啜った。  「ジュースかなにか、お出しできればいいんですけど、ちょっと切らしているものですから。」  藤がそんなことを言うので、夕は慌てて頭を振った。藤から流れてくる静かな気配や、かすかな香の香りには、ファンタやカルピスなんかは似合わない。たまたま切らしているわけではなくて、元々そんな物は置いていないのだろう。それは、夕の父親の趣味として。  ぶんぶんと首を振る夕を見て、藤は眩しそうに目を細めた。  そして、夕に羊羹を勧めながら、幸せですよ、と囁いたのだ。  あまりにも唐突な台詞だったので、夕はなんの反応もできず、羊羹の皿を手にしたまま固まった。  藤は、しんと初雪みたいな頬で笑いながら、そっと手を伸ばして夕の半ズボンの裾に触れた。  そこはまだ、大分湿って色を変えていた。  それでも夕は、大急ぎで羊羹をかっこみ、緑茶をがぶ飲みすると、縁側から飛び降りた。  藤は、驚いた様子は見せず、ただ夕を見ていた。その、深い藤の色を秘めた両目で。  いつか父が死んだら。  そんなことを考えたのは、夕にとってはじめての経験だった。  父親なんか死んでしまえ、と呪ったことはいくらでもあるけれど、現実的に、父の死を考えたのは。  いつか父が死んだら、この屋敷は夕のものになる。  その時、藤は……。  帰ります、と、夕は言った。  お気をつけて、と、藤が返した。  まだ濡れてるズボンの裾については、ふたりともなにも言わなかった。  騒々しく鳴いていた蝉の声はだいぶ静まり、遠くの方でひぐらしだけが鳴いていた。  藤も縁側から立ち上がり、夕を見送ってくれた。  夕は走って離れの前を抜け、そのままの勢いで、広い屋敷の庭を駆け出していった。  
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