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あなたが好きなのは、藤さんでしょう。
夕は陽子のその言葉を聞いて、固まった。
それは、同じことではないのか? だって、藤は男だ。どうしようもなく。
「それって、同じことじゃないのか?」
まだぎこちない唇の動きを気にしながら問いかけると、陽子はぱちぱちと両目を瞬いた後、大きく首を横に振った。
陽子の長い黒髪が、はらりと広がって、また彼女の胸の前に落ち着く。その髪を手の甲であっけらかんと払いのけながら、陽子は全然違いますよ、と言った。正確には、ぜーんぜん、違いますよ、と。
そして、無邪気ないつもの顔と声で、ちょっとだけ早口になって言った。
「いいこと教えて差し上げます。この世の中には無限に靴があるじゃないですか。でも、自分の足にぴったんこで、はいてることすら感じさせないような靴は、滅多なことじゃ見つからないじゃないですか。もしそんな靴が見つかったとしたら、デザインや色なんかに文句をつけるのはバカげたことです。人を好きになるって、多分そういうことですよ。」
陽子のそのたとえ話に、夕はすぐに頷くことはできなかった。
彼女の言う理屈は分かる。でも、世の中には、靴のデザインや色が気になって仕方がない人種だっているのだ。それが、バカげたことだと分かっていたとしても。
そして夕は、自分がそんな人種だと理解していた。
他人の目か、それとも自分の中にいつの間にか内蔵されてしまった世間の目か。そんなものが、自分の好きな靴を履くことを許してくれない。
夕の右の頬に、涙が一筋伝った。
陽子は、それが涙だと夕が意識するより早く、コートの袖で雫を拭ってくれた。
俺は、泣いたのか。
夕は驚いて、これ以上涙が流れないように、電車の天井を見上げた。
なぜ泣いているのかは、さっぱりわからない気もしたし、これ以上なくはっきりしている気もした。
しばらく黙って天井を見つめた後、よし、これ以上はもう涙は出ない、と確信してから、夕は陽子の目を見返した。
彼女は、心配そうに夕の顔を見つめていた。
「藤を恋しがって泣いたのかも知れない。」
夕は正直にそう言った。それ以外の言葉が、いくら天井を見上げたところで、自分の中に見つからなかったのだ。
すると陽子は、くすりとほのかに微笑んで、素直ですね、と、褒めるように、そそのかすように、囁いた。
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