藤の精

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 夕の母親は、決して醜いわけではなかった。古い地主の家系の娘で、それに見合った、どこか古びた姫人形を思わせるような、色褪せたうつくしさを持っていた。  ただ、そのうつくしさが、15の藤の、満開のうつくしさには到底敵わなかっただけで。  「……可哀想なひとだと思うよ。」  夕が言うと、陽子は大きな目を彼に向け、先を促した。  「落ちぶれ貴族の娘が成金に買われただけだって、割り切ればよかっただけなのに、それができなかったんだ。……プライドの問題かな。」  夕が長く深い息をつくと、陽子がさらりと言った。  「愛の問題ではなくてですか?」  愛の問題。  これまで考えたこともない言葉に、夕はいっそたじろいだ。  愛の問題、だったのだろうか。  母はどこからどう見ても、父を愛してはいなかった。母も藤や陽子と同じく、父に買われてきたコレクションの一部のようだった。  でもそれはただ夕がそう思い込んでいただけで、本当はそこに、愛の問題があったのだろうか。  そう考えるだけで、吐き気がした。  体を丸め、口元に手を押し付けると同時に、嗚咽が漏れた。  愛の問題  そんなものが父と母の間に会ったと思うだけで、内蔵がざわめき、拒絶反応が生まれた。  陽子は夕のそんな反応を見ても、驚きはしなかった。  「……夕さまは、いつだってお優しいのに、奥様と旦那様のことは、絶対にお許しになれないのですね。」  ただ、静かに、そう口にしただけで。  がたんごとん、と、電車が揺れる音だけが、夕と陽子の間にあった。白い光が窓から差し、夕の目を焼いた。陽子は、心地よさそうに目を細め、それから夕の方を見た。  夕は口元を覆っていた手を離し、陽子から顔を背けた。  3つ年下の女の子に、情けない顔を見せたくはなかったのだ。  すると陽子はくすりと笑い、逃げてはあげない、と囁くように言った。  「陽子は夕さまを好きですけど、一緒に逃げてはあげないですよ。」  「……逃げるって、なにから。」  「全部ですよ。夕さまが嫌いなもの全部。」   「できるのか、そんなことが。」  「簡単ですよ。今から電車を乗り換えて、どこか知らない場所に行けばいいだけ。陽子はそんなふうにして、ここに来たんですから。」  夕は驚いて、隣に座る、幼さが残る少女を見た。  そんなふうにして、ここまで来た。  こんな幼気な目をして、細い肩をして、小さな手をして、彼女はなにから逃げてここまでやってきたというのだろうか。
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