陽子

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 「陽子は幸せですよ。旦那様に拾っていただいて。そうじゃなかったら、きっとどこかで野垂れ死んでいましたから。」  陽子は、ひどく尊いものでも見るみたいに、両目をそっと細めた。その視線の先にあるのは、ただの電車の窓なのに、それでも。  旦那様に拾っていただいて。  夕はその言葉を聞いて、陽子がうちにやってきた日のことを思い出した。  夕が大学の講義を終えて帰ると、襖を開きっぱなしにした客間に父と母と陽子がいた。陽子は少しうつむき、父の隣に小さくなって座っていた。  木目のテーブルを挟んで向かい側に座る母は、いつもと変わらない、冷え切った無表情をしていた。  夕は、また父が愛人を連れてきたのかと思った。陽子からはまだ女の匂いがしなかったけれど、藤が屋敷に連れてこられたのも、目の前の陽子と同じような年齢の頃だった。  とんだ悪趣味だ。それをわざわざ母のもとに連れてくるところも。  そう思った夕は、そのまま客間の前を通り過ぎ、自室に向かった。  そして翌日、目を覚まして身支度を整え、学校に行こうと廊下に出ると、陽子が紺色のお仕着せを着て、廊下の水拭きをしていた。  夕は自分の勘違いに気が付き、思わず苦笑した。すると陽子がこちらを向き、なにを笑っているんですか? と問うてきた。  いつも機嫌が悪い坊ちゃんを薄っすらと恐れている、他の女中たちとは全く違う態度だった。  夕は、なんでもないよ、とだけ言って玄関で靴を引っ掛け、学校に向かった。  車窓の景色を眺めていた陽子が、ふとこちらを向いた。  「あのとき、夕さまは、陽子のことも愛人だと思っていたのでしょう?」  それは、疑問形というよりは、ただの確認だった。  夕はあの日と同じ苦笑を返した。  「旦那さまの愛人は、藤さんだけですよ。」  陽子がするりと言葉を紡ぐ。  「陽子がどんなに望んだって、女中止まりです。3号さんにもなれません。」  「え?……望んだ、のか?」  「ものの例えですよ。」  陽子は笑ったけれど、夕には陽子の言葉が信用できなかった。  ものの例えではなく、陽子の本心は、他のところにあるのではないかと。 「……藤が、羨ましいか?」 「いいえ。陽子には無理ですから。お屋敷の中でじっとしているだけなんて。」  夕は、それ以上言葉が接げなくなって黙った。  陽子は、静かに微笑んだまま車窓を行き過ぎる景色を眺めていた。  はじめは山や森ばかりだった景色が、いつの間にか住宅街に変わっている。  
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