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ウルバン家で楽しいひとときを終えた今宵は、随分と空が高かった。澄んだ空気に三日月がくっきりと弧を描いて、どこか不思議な夜を思わせる。
魔物がナイトデートするには打ってつけ。
銀狼はマナを背に乗せて、アルプスの山中を駆け抜けていた。
首をもたげてマナに気配を向ける。
もっと、スピードを上げるとするセスの意を汲んで、マナは振り落とされないように、しっかりとしがみついた。
颯爽と過ぎ去る景色に反して、枝葉の隙間から覗いた夜空は止まって見えた。そして、あっという間にその視界が開けた。
夜露に濡れた草木の匂いを置き去りにして、月に最も近い尾根に辿り着いたのだ。
星々の浮かぶ宙の下、銀狼の息遣いだけが躍動していた。
マナは労わるように銀狼の背を撫でた。此処で降りたいとする時のいつもの合図だった。
「マナ」
銀狼はセスだと心得ていようと、入れ替わってセスが戻ってきた気がすることが不思議であった。
人型に戻ったセスの手を取り、マナは小さな笑みを浮かべた。
表情など捉えられないほどの暗がりでさえそうと知れるのは、セスの目は夜目に利くからだ。
繋いだ手は指先を絡めたもの。
マナはセスを見上げ、もう一度、今度ははっきりと、嬉しそうに笑みを咲かせた。
キュウゥゥゥと、腹の底から締め上げられ、セスは思わずよろめいた。
「どうかした?」
「あ、いや……破壊力が半端なかった」
「?」
小首を傾げつつも、マナはセスの手を引いた。
「あっちに視えているのがレマン湖よね?」
共に見渡した濃淡一色の藍の世界は甚く穏やかだった。
そして、世界はこうも美しいと、実感する。
「セス、とても大事な話があるの」
穏やかな声音でマナは切り出した。
セスにしてみれば、それは予想通りの展開だった。
マナがウルバン家を訪ねてきた時から、薄々と察するものがあったのだ。
帰り際、マナはまるで別れの挨拶のように一人一人に声を掛けていた。
きっと、何かを勘付いていたのはセリアも同じで、いつも以上になごり惜しむような長めの抱擁だった。
「私ね、レヴィンの里を出ようと思う」
ほらね?
セスは予想通りだと内心で小さく息を吐いた。
「いったいどこに行くっていうのさ?」
意を固めた顔をしているマナに問う。
「シルヴァの……ヴァンパイアの祖である彼のもとを訪ねてみようと思うの」
意外な名前がマナの口から出て、セスは少なからず驚いた。
ヴァンパイアの巣窟へ自ら足を踏み入れる。
それがマナにとって、どれほど勇気を要することなのかセスは知るからだ。
「きっと、力になってくれると思うから」
「それって、俺たちじゃあ力不足って聞こえるけれど?」
セスは落ち着いているつもりだった。
それにマナが何を言って来るのか、ある程度の予想もしていた。
それでも、どこにも行かせたくないとした感情に逆撫でされて、つい意地の悪い言葉が口を吐いていた。
一方で、マナの心は平坦だ。
心静かなまま、否を示して首を横に振った。
「私ね、この里が好きなの。だから厄介なヴァンパイアごとは、ヴァンパイアに請け負って貰うべきだって思ったのよ」
里の多くの者が零していることは正しいと、マナ自身が思うのだ。
「だったら、ジークたちのところの方が――」
安心できる。
シルヴァが信用ならないとまでは言わないが、そこまで深く彼を知らない。
「それに、里の近くにいてくれるなら守りを固めていられる」
敵陣に近づくことが、マナにとって最善策だとは思えなかった。
それでもマナは首を横に振った。
「それに、私は知りたいの。ヴァンパイアがどうしてヴァンパイアなのかをね」
ヴァンパイアの呪いとは何なのか?
マナは胸元――緋色に輝くコアに手を添える。
「クロードは正しいわ。自身のルーツを知らなければ、何も始められないの」
引き籠って、ずっと逃げ隠れしていればいいとする声に否を示せない。
「何より私自身が、逃げようとする私と闘えないから」
独りの世界は寂しくとも、全てを他人事に見ているだけで良かった。
虚無感に苛まれ、得られるものは何もないというのに、すぐに逃げ込みたくなるほどの気楽なシェルターだったのだ。
「ずっと、『私なんかいなくなったところで――』そう思って来たけれど、それって、ひどく傲慢で、ひどく無責任でしょう?」
マナは自分自身のことしか見えていなかったと、今ならば分かるのだ。
「ん……、それにそんなのはひどく寂しいよね」
かつて、マナが命を投げ打ったことをセスは思い起こしていた。
たとえそれが少年の命を助ける行為だったにせよ、マナ自身が終止符を打つことを選んだのは確かだ。
言葉通りの表情で頷いたセスに、マナは『ごめんね』と、囁くように唇を動かした。
その唇の行き先は、悲しい目をたたえたセスの頬。
親愛の印は、セスの意表を突いた。
――へ……?
間の抜けた顔をしているセスに、マナは照れ臭そうに微笑んだ。
「ありがとうね、セス」
セスのおかげで、マナはこの世界に居残る意味を見出せた。
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