世界の片隅で

1/2
前へ
/162ページ
次へ

世界の片隅で

 『君は誰……?』    話しかけられた気がしたのは気のせい?焦点の合わない瞳を瞬きして、少女は現実の世界に戻ってくると首を傾げた。  木枯らし吹き付ける季節だというのに、この部屋の暖炉には温もりがまるでなく、寒々しい部屋にはただ絵の具とテレピン油の匂いが漂っている。  そして、イーゼルの前に座る少女の他に人の気配はなかった。    この少女が今は亡き父と母から受け継いだ邸宅の一つは、森林を抜けた少し小高い丘に建っている。まるでこの家の家人の為だけに牽かれたかのように、車が一台入れるほどの一本の山道だけが人里と繋がっていた。  事実として、この山道に抜け道は無く、この邸宅の前で行き止まりである。  来客などあろうはずがない人知れない別荘というよりは、忽然と現れたと錯覚を起こさせるほどに豪奢な邸宅。    此処に少女が移り住んでおよそ五年になった。 『君は誰?』  その問いは耳に届いたというより、心に、あるいは脳に響いたと言った方が頷けた。誰とも話さない日々に飽いて、そんな気がしただけなのかもしれない。  どうかしていると自嘲気味に少女は頭を振っていた。  気を取り直して眼前のキャンバスに筆を走らせていく。迷いなく筆を走らせ、瞬く間に描かれていくそれは、写真のように精巧で緻密。吹き荒れる音までもが聞こえてきそうな荒々しい灰色の吹雪の中、まるでそこだけ時が止まったかのように存在感を示した一匹の銀の狼。こちらを見つめる瞳は静かに何かを訴えかけているようだ。 その納得のいく出来栄えに少女の口元が緩んだ。 「ふふ。まさか、あなたが話しかけてくれたって訳?」 キャンバスの狼に向かって、独り微笑む少女の目には、彼の瞳も応えたかに見えていた。    少女は画家として生計を立てている。生計といっても、少女に必要とするのは画材道具だけだった。描くためだけに絵を売る。    最初に少女に描くきっかけを与えたのは、ラストフロンティアと呼ばれる、人界からも外れた大自然だったのだが、近頃のお気に入りはこの銀狼だった。    誰とも関わることのない、隔離されたこの世界の片隅で、少女はたった一人きりで、ただ絵を描く。
/162ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加