世界の片隅で

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 両親を亡くしたその日、少女は世界に絶望した。  心と体の機能を強制的に停止した少女は、まるで石膏のように空虚を眺め続けていた。そんな少女の目に漠然と飛び込んできた最初の光が、世界の美しさだったのだ。  そう、少女の瞳はその場において、あらゆる景色を映し出す『千里眼』を有していた。    少女の瞳は壮大な大自然を無意識にただただ映し出し、少女自身に生命の(たぎ)りを眺めさせることになる。  次第にそれらは少女の閉ざされた心を揺さぶり続け、生と死とは、およそ通過点の出来事に過ぎないと知らしめるに至ったのだ。    それでも再び覚醒するまで、たっぷり二年の歳月を要していた。    少女はより近く、深く、この世界の恩恵に触れていたいと筆を取ることにした。描いている時だけは少女もこの世界の一部であり、決して独り取り残されたわけではないと思えたのだ。    遥か遠方をどこまでも見渡せる少女の瞳は様々な景色を捉え、あたかも自身がそこにいるかのような錯覚を起こさせる。  そして、瞳が映し出す広大な世界を描くことで少女は満たされ、癒されていた。    そんな生活がほどなくした頃、少女はこの銀狼に出会ったのだ。  たった今描いたばかりの美しい毛並みからは、その命の鼓動さえも感じられるのではないかと思わせた。  少女は思わず手を伸ばす。 ──触れてみたい……。  叶わない願いを胸の内で呟きながら、伸ばした指先はキャンバスに触れるかというところで丸められた。  少女は小さく笑みを浮かべるだけで、その想いを閉じた。  少女がぐるりと部屋を見渡せば、一面に同じ銀狼がいる。  青いデイジーの咲き乱れる野原を駆け巡る姿。夜空の月へ遠吠えする姿。仲間と夕暮れの尾根を走り抜ける姿。川に飛び込み水浴びを楽しむ姿。それは勇ましかったり、愛らしかったりと、どれもが少女の胸をくすぐってくる。  少女は椅子に腰かけ、脚を傾けながら、取り囲む銀狼の姿を順に目で追っていく。  銀狼と共に山路を駆け巡る。  ぐらりっと、椅子が大きく傾いだ。  ひっくり返ると知ったが、少女は銀狼と共にあった。なんら抵抗することなく滝壺にダイブする。  足元には飛沫で虹が掛かっていた。  輝やかしいほどの歓びに満ちた世界観。  目を見張り、歓声に代わる笑みを少女は満面に浮かべていた。  とどのつまり、そのまま派手にひっくり返ることは否めない。  ガタンッ!       予想するまでもなく激しい音が屋敷中に鳴り響いたが、少女は別段気にも留めない。ここに音を気遣わなければならない人は誰一人いないのだ。後頭部をそれなりに打ちつけても、少女に痛むそぶりはまるでない。それどころか形の良い口元は、満足気に弧を描いていた。  少女の名は『マナ』  父は人間だが、母は人間とヴァンパイアの混血だった。 ヴァンパイアの血を1/4受け継ぐマナは、もちろん椅子からひっくり返ったくらいで痛みを覚える(やわ)な身体ではないのだ。 ──夢にあなたが出てくれば、触れられるかしら……?  淡い想いを抱きながら、座椅子部分に膝を掛けた不格好さのまま、マナは深い眠りに落ちていく。
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