魔物と人と

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 崖の上に生還を果たしたマナを待つ者はいなかった。 シェリーやジョーたちの姿は既にない。 ――認められたのかな? よく分からないが、現状からマナがセスの傍にあることは許されたのだろう。 「良かった……」 マナは安堵の息を吐いた。 一方でセスは顔に不満を張り付けている。 「……」 無言のセスの様子に、マナは急に自信が持てなくなった。 「えっと……、違うの?」 セスはどう見ても怒っている。 面倒を掛けた自覚は多分にあるものの、どうしようもなかったと、首を竦めるよりない。 セスは仏頂面のままに、マナの手を取った。 「?」 まだうっすらと血が滲み出ている手だ。 擦り傷だらけの薄汚れた手をまじまじと見つめられて、マナは急に恥ずかしくなった。 「セス、もういいでしょう?」 眉間に深い皴を刻んだまま、セスはマナの手を放そうとしない。 「大丈夫よ、もうほとんど治っているわ」 爪が剥がれ、深い傷だったことを思えば、今では痛みも薄らいでいた。 ほんのかすり傷だ。 マナは小さな欠伸を一つ噛み殺して、目を瞬いた。 その様子から平然として見えるが、相当に痛かったに違いないと、セスは胸を痛めていた。 手だけではない。 色んな箇所を打ち付けたのだろう、服が裂け、傷んでいることは見て取れた。 頬にも傷痕が残されている。 「レオが言っていた。ヴァンパイアにも痛覚は人並みにあるって」 「血が流れないと、傍目には石膏みたいだものね」 比較はできないが、神経回路は人間と同じ筈だと頷きで答える。 「他に痛むところはある?」 苛立ったような、その低い声音はマナを少なからず怯えさせた。 ジョーを思わせる重低音だった。 「平気よ、そのうち治る……から」 痛みよりも、眠気の方が強い。 マナは欠伸の代わりに小さく息を吐いた。 『平気』、『大丈夫』と、マナはそればかりで済ませようとする。 どうせ完治すると己をまるで顧みない。 「そう……」 セスはあろうことかその掌に深く口づけを落とした。 そればかりか、ペロッと舌先を当てて舐め取ったのだ。 バッっと、マナは慌ててその手を奪い返した。 一息に眠気が覚める。 「セ、セ、セスはヴァンパイアじゃあないでしょっ」 何をしでかしているのかと叱り付ける。 それに紛れもなく、今は人型ではないか。 「だから?」 だ、だから!? 何を言っているのかと、マナは耳を疑った。 「な、舐めたらダメよ。もし、セスまで穢れでもしたら――」 ヴァンパイアの血は危険だ。 異種族であるなら尚更に危険であるに違いない。 「冗談じゃあないっ!!!マナのどこがどう穢れているって?」 セスは憤慨した。 「だって、私は――」 ヴァンパイアだと言葉にするよりも早く、セスはマナに捲し立てた。 「できることなら俺は、マナを腹の中に全部仕舞っときたいくらいだよっ」 珍しく声を荒げて、言い放った。  赤ずきんを丸のみする狼を想像したものの、まるで笑えない。 それに、食あたりを起こすに決まっている。 どんなメルフェンだ。 「私の血は、グリフィスだって飲むことをためらっていたくらいよ」 マナはセスを諫める為に引き合いに出してしまう。 ぴくっと、セスの蟀谷が引き攣った。 「危険よ、どんな作用があるか分からないもの」 なんせ、マナ自身でさえ想像が付かない。 「……そいつに、マナは何をされたの?」 そんなことはマナにとっては最早どうだっていいことだ。 それよりも――。 「もし、セスに何かあったら……わ、私――」 どう責任を取ればいいのか分からない。 だというのに、セスは怯えるマナの手を奪い取って、その傷をまたもや舐め取ろうとする。 「や、やめてっ、ダメよっ」 ただでさえセスの力に敵う筈がない上に、今はちびマナだ。 勝てる相手ではない。 「言わないならやめない」 セスの眼は本気だった。 「少し……痛めつけられていただけよ」 マナはさり気なく目を逸らした。 ヴァンパイアの記憶は明確にして鮮明、それ故に、辛い記憶は厳重に鍵をかけておかなければ精神が病んでしまう。 「エネルギー不足で今は治りが遅いけれど、本当なら直ぐよ」 植物を急成長させた『神の手』は一番エネルギーを使うのだと、マナは説く。 セスを安心させたかったのだが、そうもいかなかったようだ。 「拷問を……受けていたのか……よ」 消え入りそうな声を落とし込みながら、セスは小さなマナの肩に項垂れた。 これ以上に無いほどに驚いたのはマナだ。 「くそっ……マナ、ごめんな……」 セスは泣いていた。 涙を見たわけではないが、懸命に歯を食いしばるせいで、肩を震わせていた。 どうしてセスが泣くのか? 何をそうも謝ることがあるのか? ダンピールが狙われるのはどうしようもないことだ。 セスは全く悪くない。 そう、どうしようもないことだと分かっていても、悔いずにはいられないことはある。 マナにもそんな覚えは、確かにあるのだ。 「大丈夫、今はセスの傍にいるもの」 マナは幼子にするように、セスの頭を撫でた。 そっと顔を上げたセスに、ニヘラと間の抜けた笑みを覗かせる。 「ね?」 マナはセスの懐に入り込んだ。 腹に仕舞い込んでおきたいと告げたセスの気持ちがなんとなく分かった。 小さな両腕をめいいっぱいに広げて、その広い背を抱き締めた。 マナもセスを懐に仕舞っておきたくなったのだ。 「もうセスを置いて行ったりしないもの」 くすぐったいほど幸せそうな笑みを浮かべるマナに、セスはようやく安心できたのだった。
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