15人が本棚に入れています
本棚に追加
さてさて、ホームスティとは何もかもが新鮮で、マナにとっては戸惑いの連続だった。
静けさとは無縁、規則正しい目覚めに始まり、不規則な就寝に至るまでが終始賑やかしい。
マナはしばし圧倒されながらも、ウルバン家の生活形式に馴染もうと奮闘している。
一方で、ウルバン家としてはマナをセスの嫁として受け入れ始めていた。
「マナちゃん、セスを起こして来てくれる?それから後でお弁当作りを手伝ってくれるかしら?」
セリアに言われるがままに、マナは知らず花嫁修業に入らされていた。
食べることはおろか、お料理など経験は皆無。なんせ、皿洗いさえしたことがないマナである。
そんな不出来な嫁、いや、居候であってはならないと、マナは目下セリアのお手伝いに勤しんでいた。
「そろそろ白い婚姻から明けてもいいのじゃあないか?良い娘だよ、マナは」
いつまでも客間で、客人扱いは可哀想だと、ヤマラはマナを見送りながらジョーに問う。
「それは、セスに直接言ってくれ」
マナに客間をあてがったのは、セス本人だとジョーは明かした。
「なんだあいつ、肝心なところで奥手か」
ヤマラは呆れる。
「よもやの狼の名折れだ」と、ジョーも皮肉を口にするものの、ああも雛鶏だと手を出すにも出せないだろうと、セスを憐れんだのだった。
そんな男どもの憐憫の情はともかくとして、ウルバン家の朝は日の出とともに始まる。先ずは広大な農園での収穫作業が待っていた。
マナはジェシカに作業着を借りて、ハウスの中の苺の摘み取りに没頭する。ジョーの双子、ミリーとカムイに教わりながら、どちらが早く摘み取れるかの競争をするのは楽しかった。
「うわぁぁ、負けた」
タッチの差で負けたカムイは頭を抱えて悔しがる。
ミリーはそのマナよりも速かったのだが、誤って幾つか未成熟が紛れていた。
カムイにそれを『お前は論外だ』と、厳しく指摘されて、ミリーはすっかりしょげてしまっている。
『ミリー』
マナは人差し指を口に当てて、悔しがるカムイを余所にミリーに声を忍ばせた。
そして、ミリーの摘んでしまった未成熟の苺に手を添える。
再び見せた苺は食べ頃に熟れたそれ。
目を瞠って、驚きに開いたミリーの口に、マナはそれを頬張らせた。
「くふふ、一等賞。美味しい?」
苺の収穫期と言えば新緑の頃だと思っていたのだが、冬季に出回る早期苺の方が甘いのだとか。
いったいどうやったのかと、目を瞬くミリーに、マナは内緒を示した微笑みを浮かべるだけだ。
ミリーがマナに抱いた第一印象は嫉妬に近いものだった。
遊び相手だったセスを取られた気になっていたことが大きな要因。
それだけでなく、セリアら他の家族がマナに注視していることが気にくわない。
ミリーとしては、何だか居場所を奪われた心地であったのだ。
けれど、今のマナは成体だ。
そうとなれば、見方は一変する。
ミリーにとってマイナスだった要因が全てプラスに転換していた。
自慢のお姉さんが出来たと思う気持ちが大きく芽吹き始めている。
今も凄いと褒めて欲しくて張り切ったのだ。
いつもはカムイにどうしたって負けてしまうから、スピード勝負だけにこだわったが為の敗因だった。
「セスが何をしているのか見に行ってきてもいい?」
雪原の先を指さし、マナはミリーたちに振り返る。
朝日を受けて煌めく飴色の髪、雪のようにしっとりと白い頬に、ほんのりほのかな桜色が差している。
遠くセスの姿を見つけたマナは、白い小さな歯を覗かせていた。
そんなマナに、年端のいかないミリーでさえキュンとしてしまう。
――ヴァンパイアってこんなに可愛いものなの?
ミリーはヴァンパイアを実際に見たことは無い。
人間を魅了し、虜にする花のような種族で、安易に気を許してはならないとだけ伝え聞いていた。
けれどマナからはそんな悪魔的な印象はちっとも抱かない。
事実としてマナは毒牙を持たず、人間の生き血も啜らない。
「マナ、神隠しに合わないでね」
不意にミリーは心配になった。
その昔、古の時代の伝説が頭を過ったのだ。
本来は異界に棲むはずの精霊族が、気に入った娘を花嫁に迎えていたとする魔物に伝わる史実だ。
ミリーたちこの世界に紛れる魔物は、そこからの移住者だとも、その子孫だとも伝えられている。
「それは精霊の愛し子の話?」
そうだと神妙に頷くミリーに、マナは安心させるように笑みを深めた。
「大丈夫、私はセスの傍にいるって、もう伝えてあるもの」
マナはそのセスの傍に行こうと、雪原の上を駆けて行った。
「――って、誰に???」
既に遠く、答えは返らない。
ミリーとカムイは顔を見合わせ、首を傾げるよりなかったのだった。
最初のコメントを投稿しよう!