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「覚えがある香りを嗅いだ気がしたのだが」
普段ならその程度の感覚で立ち止まることはないのだが、何故か気になった。側に来た弘紀も修之輔が気づいた匂いとやらを嗅ぎ分けようと形良い鼻をくんくんと動かしている。
「これは……」
霧を運んでくる風の中、そのうちに弘紀も香りを察したらしい。すぐに機敏な動きで香りの流れてくる方へと移動し始めた。体躯が小柄な分動きやすいのか、弘紀はどんどん藪を進み低木の枝を掻き分けて進んでいく。修之輔は帰り道に迷わぬように時折背後を振り返りながら、弘紀の背を追った。
入り組んだ谷の一つに入り込むと霧は乳白色に濃さを増して、けれど次第に強くなる香りは谷の上から流れてくる。岩に足を掛けて登る弘紀の体を支え、足場を得た弘紀が修之輔を引き上げて、そうして二人して一つの尾根に辿り着いたところで霧がそこだけ凝ったように白く小さな花をいくつも咲かせる木が一本、行く手を遮るように立っていた。
「この花の香」
弘紀が呟いて木に近づく。谷から吹き上げる風が霧を散らして、その木の全容が明らかになった。高さは一丈ではきかず、横幅も二間はある。硬く幅の狭い葉が密生していて枝を隠すが、垣間見る幹はごつごつと太く見るからに頑丈そうだ。根元の樹皮は巌のように固まり、この木が重ねている年輪の厚みが相当なものであることが見て取れる。
頑健な幹とは対照的に小さく真白な花は清らかな可憐さで、よく見ると椿の花形によく似ていた。その花から霧の中へと絶え間なく芳香が零れ落ちている。
「須貝で採れる茶の香りと同じだ」
弘紀は花よりも葉に強く関心を持った。古木の枝から葉を一枚取り、裏表と何度かひっくり返して様子を見た後、指で揉んで葉の匂いを確かめる。
「これは紛れなく茶の葉です。この木は、茶の木です」
弘紀はもう一枚艶やかな緑の葉を取って唇に挟んで軽く嚙み、その味も確かめている。修之輔も弘紀を真似て葉を一枚取った。茶の葉の形は修之輔には分からず、けれど間近に漂う花の香りが木村が淹れたあの茶の香りと確実に同じものだった。
弘紀は花の匂いに惑わされることなく、木の詳しい形態をつぶさに見ていく。
「葉の形が違う。枝への葉の付き方も。こんな茶の木は見たことがない」
弘紀の口調には好奇心の高揚が明らかだった。
弘紀の言うようにこれが茶の木なら、樹齢は優に百年を超えているだろう。これだけの枝を伸ばし、これだけの幹の太さになるまで、いったいどれだけの歳月を生きてきたのだろうか。
霧に紛れるとより際立つその花の香りはどこか桜の香りに似て、華やかさの裏にはこの木が積み重ねてきた重厚な年月が感じられた。
ふと、弘紀が木から目を離して辺りを見渡した。修之輔も弘紀の視線を追って視線を巡らすと、霧に隠れてはいるがかろうじて辺りに重なる稜線が見えた。
「風か」
稜線から谷へ、素早く視線を往復させた弘紀が云う。
「風とは」
「茶の木に花が咲き始める今頃、山から下りる風が吹くのです。その風にこの木の花粉が運ばれて、山の麓の茶の木に実を付けさせているのではないかと思ったのです。須貝の庄でのみ香りの良い茶が取れるのは、この茶の木の子孫だから。そして須貝の庄にのみ、ここから花粉を乗せた風が下りていくからなのではないでしょうか」
そこまで云うと、弘紀は腰から自分の小刀を抜き、花のついた枝を一本切り出した。
「持って帰って、もっとよく見てみようと思います」
修之輔が手伝う前に、弘紀は枝を器用にスペンサー銃に挟んでまとめて一緒に背に背負った。
その時、それまで尾根を吹き降ろしていた風が今度は谷から強く吹きあがり、辺りの霧を搔き消した。束の間、眼下に山並みの光景が広がる。
目前には霊峰富士の山が神々しく聳え立ち、その足元から険しい山並みが北の信州へと連なっている。修之輔の故郷である黒河藩はその山並みの向こうにあるのだと、目を細めて眺めてみた。
渓谷には霧が漂い、自分たちの足下を雲が流れていく。
「それで」
またひときわ強い風が吹いて辺りを覆った霧の中、姿勢よく佇む弘紀が口を開いた。だいたい次の言葉は察しがついている。
「私達は帰り道が分からなくなっています。つまりは、迷子です」
最初に茶の花の香りに気を取られたのは修之輔だったが、その後、ここまで山を登ってきたのは好奇心を抑えられなかった弘紀の主導だ。途中で弘紀を引き留めなかったのは修之輔で、結局は互いの責任だった。
来る途中にも、帰り道を探す今も、霧が視界を惑わせている。
先ほどから時折吹いてくる気まぐれのような強い風を待って少しずつ移動するしかなさそうだった。だが、まずどちらに足を向けていいのか。
とぷん
不意に、その場にそぐわぬ水音が聞こえた。
弘紀と修之輔が揃って音の聞こえた自分たちの足元を見下ろすと、そこは崖になっていて下には池の水面が広がっていた。池の傍には草むらがあり、その中を何か白い物が動いている。しばらく見ているとその白い物は翼を広げて、それが白鷺であることが分かった。
とぷん
白鷺は顔を水面に潜らせて池の魚を獲っている。
その様子を眺めていた弘紀がすこし首を傾げた。
「もしかしてあれが伝説の池かも」
「伝説とは」
「この地に伝わる昔話なのです」
弘紀によると、昔、戦に敗れた豪族の御曹司が山の中にひととき身を隠したことがあったのだという。
「一人で山に潜んでいたその御曹司に、水場のありかを教えて命を救ったのが一羽の白鷺だったといいます。彼の者はそれで生き延びて、その後この辺り一帯を治める豪族の長となったそうです」
「そういえば先ほどここに登ってくる前にあった神社は白鷺八幡神社といわなかったか」
弘紀が修之輔の言葉に頷いた。
「そうですね。もしかしたらあの社はその御曹司が白鷺の恩に報いようと建てたものかもしれません」
この地を治めたというその御曹司の身の上と、羽代を統治する自分の身の上を重ねたのだろうか、弘紀の口調はどこか感慨深く聞こえた。
だが今はそこまで余裕のある状況ではない。修之輔はあらためて弘紀に聞いた。
「そんな言い伝えがあるのなら、弘紀はここがどの辺りか分かるのか」
「場所が分からないから伝説なのです」
それはそうなのだが。
「私たちが迷子なことには変わりないです」
弘紀がなぜか勝ち誇った口調で宣言する。
危機感の乏しい弘紀の腕を無言で引いて、修之輔はとにかく先ほど上ってきた山肌を記憶を頼りに下り始めた。後続の者たちがやってくる前にせめてあの社のところにまで戻らなければならない。藩主が行方不明になったなどと皆が騒ぎ始めたら、大変なことになる。
霧は今は尾根から谷へと落ち始め、背後は乳白色に閉ざされていく。ここの岩には手を付いた覚えが、この枝の曲がり具合には見覚えが、そう二人で確認しながら霧に追われるように尾根を下りていくと、やがて馬の嘶きが聞こえてきた。それは待つことに飽きた松風と、松風を諫める残雪の二頭の馬の声だった。
松風たちの声を頼りに斜面をおりると、案外早く見覚えのある道に辿りついた。
その道を足早に下り、白鷺八幡神社を通り過ぎて馬を繋いだ場所に戻る。松風は前足を踏み鳴らして人間に憤懣を訴えたが、一方で残雪は道の脇を気にしていた。修之輔が残雪の脇に立ってそちらを見ると見慣れた姿がいくつか見えた。聞き覚えのある声も聞こえてくる。後続の者たちがようやく追いついてきたようだ。けれど彼らが列を作って通っているのは弘紀たちがいる道より一段低い、田の傍を通る道だった。
松風に騎乗した弘紀が彼らに駆け寄り、「ずっとここで皆を待っていたのだ」と、何食わぬ顔をして行列に合流するのを見届けて、修之輔は自分も列の最後尾についた。残雪を歩ませながら振り返ると、先ほどまで弘紀と修之輔がいた場所には静かに霧が立ち込め、白鷺八幡神社を含めた辺りすべてを覆い隠しつつあるところだった。
その日、須貝の庄の視察を終えた弘紀はこの地をより大規模に開墾し、新たな茶畑を作ることを公式に決めた。
「この枝を増やしてほしい」
須貝の庄を去る前に弘紀はそう言って、背負っていた枝を茶の栽培に長けたものに託した。
翌年の春になり、その枝の接ぎ木が成功し何本かの新たな茶の木を得た、との報告が須貝の庄からあった。その報告と共に、あの枝から増やした茶の木の鉢が一つ、羽代城に届けられた。
いつものように修之輔が夜更けの弘紀の私室を訪れると、床の間にその茶の木の鉢が置かれていた。敷かれた緋色の南蛮更紗の敷物の上には煎茶道具が並べられている。
「貴方が淹れた茶を飲みたいのです」
弘紀に促されるまま茶を淹れて瀟洒な飾りの汲み出しに注いで渡すと、弘紀は一口飲んで満足げに目を細めた。
「この茶の木の詳細な絵を描かせて、枝葉とともに江戸の兄上のところに送りました。兄よりも土岐が詳しいというので、調べさせています」
「内藤新宿のあのお屋敷か」
先の参勤では、修之輔も弘紀に従って江戸に行った。内藤新宿にある朝永家の下屋敷も訪れている。
「はい。下屋敷は兄と土岐の子が過ごすために相応しく少々造りを変えさせました。なにせ朝永の名を継ぐ子ですから。私がその兄の子に家督を譲るまでに、この茶の木が羽代を支える有力な商品になればよいと思っています」
新たな茶畑を開墾し始めた須貝では既に十数本が畑に移植されているという。弘紀の満足げな微笑みに、修之輔もまた己の満ちる思いがした。
ただ後日、修之輔が木村から聞いたところによると、殿様からの依頼に失敗したら大変なことだからと木村の縁者や他数人があの茶の古木を探しに山に入ったが、どれほど探しても弘紀と修之輔が見たあの茶の古木は見つからなかった、ということだった。
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