白鷺の血潮

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 深くは寝付くことはないまま、忠孝はうつらうつらと最初の夜を過ごした。  日が昇る前、空が白み始めた頃から小禽が鳴き始めた。思いがけない近さから聞こえてくるその声に目を覚ました忠孝は、自分が僅かでも意識を手放す眠りに落ちていたことをかろうじて自覚した。  荒れ屋の天井を眺めていたのも束の間、身を起こすために床に付いた手に、巾に包まれた自分の太刀が触れた。父が忠孝の初陣用に拵えてくれた兵庫鎖の太刀である。昨日、鎧兜は外してもこの太刀だけは背に負い山を登ってきた。  忠孝が太刀から巾を取って金銅の覆輪が施された鞘の中ほどを直に握って立ち上がると、戸口で寝ていた籐佐もその場に起き上がった。  忠孝が無言で小屋の外に出ると、籐佐は後についてきた。  細い山道は意図を持って小屋の前から忠孝たちを何処かへ誘う。  朝露に足を濡らしながら道なりに歩くと、やがて草むらの影に池が見えてきた。  水面は白い霧の底に沈んで面には何も映さず、靄が水面を渡る音すら聞こえてくる。対岸の視界は霧に途切れて池がどれほどの大きさなのかは分からなかった。  尾根筋を上る間は岩の間から水が湧くところもあったが、登り切った山頂付近にこのような池があるのは珍しい。  霧の中に甘い香りが紛れているのに気づいた。微かな空気の動きに風上を知り、見ると池の近くに山百合が群れを成して白く大きな花を幾つも咲かせていた。  忠孝は水辺に寄って手に水を掬い、色と匂いを確かめてからその水を飲んだ。甘露とも思えず、ただありきたりの池の水だった。 「後ほどこちらの水を汲んで小屋にお持ちします」  背後に控える籐佐がそう云った。    二人が携帯していた干飯は、細々と食い繋いでも三日ほどで無くなったが、川西らの迎えが来る気配は未だなかった。それどころか麓のどんな気配も山の上までは上がってこない。 「山を下りるべきか」  干飯が無くなった夜、思わず忠孝はそう口にした。籐佐に問うた、というより自問が声に出ただけだった。籐佐もそれを察したか、返答はなく、ただ土間に体を丸めた。  月は明るく中天に上りつつあり、二人の他は何もない小屋の中を照らし出していた。 「もしや、私がここにいることを忘れられたか」  自嘲が声音に含まれるのは隠しようがなかった。籐佐が突かれたように顔を上げた。 「そのようなことは決してありませぬ」 「何故そう言い切れる」 「川西様ならば必ず、忠孝様をお迎えに参りましょう」 「もし川西たちが館に戻る前に討ち取られていたらどうする」 「……それは」  川西を単純に信じ、それ以外の可能性を疑わない籐佐の単純さに、忠孝は腹の中に沸き上がって抑えきれない苛立ちを覚えた。  忠孝は衝動をそのままに、床に置かれた太刀を拾い上げてすかさず鞘から抜き、小屋の中で思いきり一振りした。  空を裂く音と共に思いがけない衝撃が腕に伝わってきた。  刃が、歪み傾いだ荒れ屋の柱に食い込んでいた。  柱に食われた刀を外そうとして思うようにいかず、忠孝の苛立ちは急速に膨張した。  素手で柱を叩き、蹴る。元から荒れて崩れかけた屋根からぼろぼろと萱が抜け落ち、木組みはと音を立てた。  いっそ壊れてしまえば良い。  言葉にならない獣のような咆哮でしか己の感情を発露できない忠孝の姿を見て、籐佐が土間から立ち上がった。  取り乱した主を見捨てて逃げるのか。  頭中を巡る白熱した憤怒を目から溢しながら、忠孝は籐佐を睨んだ。  立ち上がった籐佐は小屋の外には出ず、土間から床に上がって恐慌状態の忠孝の脇に立った。そして後ろから腕を回し、太刀の柄に張り付いた忠孝の両手に自分の両手を重ねた。  籐佐に刀ごと自分の体を押さえつけられ、忠孝の怒りの矛先は籐佐に向かった。忠孝は在り得る力で籐佐を払いのけようとしたが、籐佐は思いがけない力で忠孝の背を抱え込んだ。 「力を合わせ、一息に引きましょう」  忠孝の背から肩を圧しながら、籐佐が耳元近くでそう云う。  加減された拘束と、明確で単純な目的。  だからこそ緩やかに、だが確実に、冷静さが忠孝に戻った。 「一、二、三」  籐佐の声に合わせて、二人、同じ方向に太刀を引いた。太刀は呆気なく柱から外れ、力が抜けた忠孝の手から籐佐が太刀を取って鞘に納めた。  礼か詫びか、言葉を選びかねて、けれど何か言わねばならないと籐佐を振り仰いだ忠孝は、間近に見上げた籐佐の目の中に思わぬ感情があるのを認めた。その感情が持つ熱はこの場を照らす月の白い光にはないものだった。  それがどのような心情によるものか、忠孝は考える前に籐佐の体を突き放した。籐佐は何も言わずに一礼し、床に太刀を丁寧に置くと小屋から出て行った。
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