白鷺の血潮

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 人が訪れない池の底には、まだ姿を見せぬ山女魚が潜んでいる。  山百合もそうと見て探せば彼方此方に群れを成して生えていた。小屋の裏には雑草に紛れて粟が生えていたが、これはこの小屋を使う六部が食糧とすべく植えたものだろう。木の枝を草葉と蔓で繋いだ簡便な戸板で時折襲う冷気もある程度防ぐことができた。  しばらくはここで凌ぐことができるという事実に安堵して、さらに数日が過ぎた。  その日も誰も訪れることなく、忠孝は籐佐と二人で足下の稜線に沈む夕日を眺めていた。山蝉の鳴き声は一時の隆盛を過ぎて代わりに蜩の声が谷を長く渡っていく。  ここまでくれば山を下りる時を決めるのは自分だと忠孝は理解していた。  明日か明後日か。昨日と一昨日の夕方に考えたことを今日も頭の中で繰り返す。  傍らの籐佐を見ると、その目は夕日に浮かび上がる彼方の山並みを追っていた。何を思っているのか、傍からは察することのできない表情だった。  籐佐の横顔を見ていた忠孝は、視線を沈む夕日に戻した。  明日には山を下りよう。  その決意を伝えるため籐佐に声を掛けようとしたその時。  突然、夕暮れの風の中に自然のものではない音が混じった。  足音だ。獣ではなく二本の足で歩く人のたてる音だった。籐佐も気づき、直ちに忠孝を護って前に出る。忠孝は持っていた刀を鞘から抜いた。  敵か、味方か。  草を分けて歩く足音には具足の鳴る音が混じる。姿が見えたその瞬時に判断しなければならない。人影が微かに見え始める。忠孝は刀を握りなおした。足音の主はこちらの気配に気づいたのか、近づく音が止んだ。互いに気配を伺うしばらくの後、相手が声を上げた。 「忠孝様、おられますか。忠孝様、お迎えに上がりました」  聞き覚えのある声だった。刀は納めないまま忠孝は返事を返した。 「誰だ。名を名乗れ」 「我が名は任見只三郎、川西様の配下の者にございます。その声は忠孝様でございますね、ご無事でおられましたか」  そう喜色に溢れた声を上げながら草の陰から姿を現したのは、顔を知る昔なじみの者だった。 「ご無事で何よりでございます、忠孝様」 「ああ。任見、川西はどこいる。父はどうしている」  抑えようなく矢継ぎ早になる忠孝の質問に答える前、任見はその場に膝を付いた。 「忠孝様を大殿の下にすぐにお連れしたいのは山々でございます。が、道中、崖が大きく崩れたところがございます。それがあってお迎えが遅れましたこと大変心苦しく存じております」 「崖が崩れているのか」 「はい。崖が崩れた場所はひどく足場が悪く、辺りが暗ければ谷底へ足を滑らせます。今日これから山を下ればすぐに日が落ちるでしょう。私は一度通っておりますので何とか様子が分かります。なのでこれからすぐにここを下り、麓に待つ川西殿に若殿のご無事をお伝えし、万事整えて明日早朝にあらためて川西様共々お迎えに上がります。恐れ入りますが、どうかもう一晩、こちらでお待ちいただきたく存じます」  迎えが遅くなったのも崖崩れという事情を知ればどうということもない理由だった。 「分かった。明朝、ここで川西たちを待とう」  忠孝が承知すると、任見は一度こちらに向かって深く頭を下げた。そして言葉通りにすぐに早足で山を下りて行った。    山中の荒れ屋で過ごすその最後の夜も、忠孝は籐佐と背中を合わせて横になった。籐佐の体から伝わる穏やかな呼気と心音だけでは、彼が起きているのか寝ているのか判断できない。集く虫の音が昨夜よりも大きく戸外に響いていた。  忠孝は突然起き上がって籐佐の襟に手を伸ばし、力任せに掴んで引き上げた。 「逃げろ、今すぐに」  脈絡のない言葉とともに、いきなり上体を起こされた籐佐は戸惑うことも驚いた様子もなく、ただ唇の端に微かに笑みを浮かべた。 「明日の朝まで貴方を守るのが私の役目です」  忠孝は激する自分に同調しない籐佐に苛立ちを覚えた。 「そんなことはどうでもいい、今すぐに山を下りろ。麓の村に身を隠せ。そしてお前の故郷へ帰るが良い」 「故郷はすでにありません」  籐佐は静かにそう云い、襟を掴んだままの忠孝の手に自分の手を重ねた。 「私は村を奪われ家族を殺された一族の、最後の生き残りです」  籐佐の一族を滅ぼしたのは川西だった。一族の男は殺され、女子供は売られた。だがそれは今の世では珍しくはないことだった。下人として召し抱えられ、そこで頭角を現すのも生き延びる選択肢の一つだった。 「新たに再興すればよいではないか。お前はまだ若い」  籐佐は首を横に振った。 「私は一族の生き残りではあっても世代を繋ぐものではありません。故に名を持ちません。籐佐という名は川西様がつけたものです」  籐佐が語り出した奇妙な言葉に、忠孝の手は籐佐の襟から離れた。 「一族が滅ぼされたのは私が十歳になる頃でした。それまでの私は山懐に開かれた庄に一族の者と住み、春の田に緑柔らかな稲が伸びていくのを、秋の陽に実る稲穂が輝くのを一族の長とともに見守っていました。私に父母はなく、生まれたときから長の下で育てられました。春になると山の神を里に迎え、秋の実りを得るとまた山にお返しするのが我が一族の長の役目。私はその役目を継ぐものでした。神と民との仲立ちを生業としていたのです。……刃を持って人を弑するなど、考えたこともなかった」 「……お前は、巫覡だったのか」 「民が亡くなれば神も無くなります。神と人の間にある私は、神をこの世に引き留めることも民を蘇らせることもできない。無力です」  戦の役に立たぬ者。  忠孝は籐佐のことをそう断じた川西の言葉を思い出した。 「この山を下りれば私は川西様の下に戻り、貴方に近づく機会は二度とないでしょう。貴方とこうして近くに言葉を交わし、いずれこの土地の統治者となるであろう貴方に私の一族の記憶の欠片を伝えることができた。私の生に、もうこれ以上の望みはありません」  片や破竹の勢いで領土を広げつつある武士の一族の跡継ぎ、片や滅んだ一族を統治していた巫覡。互いに異なる立場ではあっても、一族を統べる血筋に生まれた者同士が荒れ屋の中で向き合っていた。 「忠孝様、お願いが」 「……なんだ」 「明日は早くに山を下りるのでしょう。来た時よりも悪路のようです。早めに休みましょう。今夜の月は眠りを妨げない高さです」  そう言い終えた籐佐は再び横になって忠孝に背を向け、それ以上語ることは無かった。  忠孝はその場に座ってその背を見つめた。傍らには未だ人の血を吸ったことのない兵庫鎖の太刀がある。鞘ごと太刀を掴んで一瞬の逡巡の後、自分の胸に引き寄せ体を床に横たえた。そしてまた、自分の背を籐佐に預けた。  自分の選択が正しいのか、分からなかった。  ただ、土地の神を背負っていたという籐佐の広い背は、実りの秋の陽の温かさを思わせた。  翌朝、日が登ってすぐに人馬の気配が間近に迫り、霧の中から昨日の言葉通り任見を先頭とした数人の武者が荒れ屋の前に現れた。 「若殿、お迎えに上がりました」  兜を脱いだ川西が膝を付いて忠孝に頭を下げる。 「ご苦労。では山を下りよう」 「は。大殿様も忠孝様をお待ちです。今日の昼過ぎには館に着きましょう」  忠義深い川西は大殿の命を完遂できることに強い誇りを見出している。川西が運んできた自分の鎧兜を身に着けて忠孝が小屋を出ると、任見が大弓に矢をつがえていた。忠孝は構わずに前に進み、牽かれてきた馬の手綱を受け取った。    任見が矢を射た。  鋭く空を切って飛んだ矢の先は、荒れ屋の戸口に立つ籐佐の左胸に真っ直ぐ突き刺さった。籐佐は一声も発することなくその場に倒れた。 「(とど)めを」  川西の命令に任見が小刀を抜き、既に動かない籐佐の体に近づいて背から心の臓を刺し貫いた。  敵陣の前から敗走し、のみならず一時でも自軍の将を欠いていたことは、須貝一族に敵対する勢力には知られてはならないことだった。滅びた一族の生き残りであり戦の役に立たない下人の命一つで口封じが済むのなら、それは安いものだった。  それは忠孝が馬に上がる間の出来事だった。馬に乗った忠孝は、背後を一度も振り返ることなく川西達とその場を去った。自分がやるべきことは分かっていた。できる限り早く館に戻り、父に自分の無事を報告しなければならない。  武者たちが具足の音を響かせながら去った後、夏の気配を無くした風が立ち込める霧を乱して一枚の白い羽を運んできた。地に落ちた白鷺の羽は、土に流れる人の血に赤く染まった。
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