天霧の樹影

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天霧の樹影

 当主朝永(ともなが)家の江戸参勤交代があった翌年、羽代藩は新たに始まった幾つかの事業を形にしながら、取り立てて騒ぎもなく、ただただ忙しなくこの年の秋を迎えていた。  藩主居城である羽代城には毎日人の出入りがあって、それはここの政治が活発に動いていることを示していた。羽代城大手門前から街へと続く海辺には漁船の他に藩が所有する荷船が並び、浜から上がった草地では薄が白い穂を風に揺らしている。風には次第に北の山地から流れてくる冷たい空気が混ざりつつあり、朝と夕には薄い霧が城下町に漂った。  その羽代城下の町からは少し離れた武家屋敷の並ぶ一角に、秋生(あきう)修之輔(しゅうのすけ)とは馴染みの下士である木村の家宅があった。小さいながらも門構えと中庭がある木村の家には、本家から呼び寄せた夫婦の使用人と小者一人が共に住んでいる。  同じ村の出身だから血縁もあり家族みたいなものだ、と、訪れた修之輔を座敷に案内しながら木村が云った。昼を過ぎたばかりの頃合いで、通された座敷にはのどかな秋の陽が差し込んでいる。 「秋生はうちにくるのは初めてだったか。楽にしてくれ。何、菊部屋の時とさほど変わらん」  いつものように人懐っこい笑みを丸顔に浮かべる木村は今年で二十八歳になり、二十六歳の修之輔より年上だ。木村は以前、修之輔と共に住み込みで羽代城に勤めていたことがあり、その時の住み込み部屋の名前が菊部屋である。他にも同室だった者たちは、先年の藩政改革で所属役職が変わり、今も城内の菊部屋に住み続けているのは修之輔ただ一人だけだった。 「お茶をお持ちいたしました」  座敷の外から声がして、使用人夫婦の片割れである中年の女が茶を運んできた。 「旦那様、少々夕飯の支度に足りないものがございます。ちょいと買いに出てもようございますかのう」  来客に気を遣う素振りもなく木村に話しかけるのは、この家に普段から同期同僚の来客が多いためだろう。 「おう、構わんぞ。あとは儂がやるから行ってこい」  木村が茶器の乗った盆を受け取ると、女はそそくさといなくなった。木村は急須から丁寧に煎茶を汲み出しに注ぎ分けて修之輔に寄越した。 「この間、本家から届けられた茶だ。儂は新茶よりも、この時分の落ち着いた茶が一番好きだ」  木村に勧められるまま修之輔はその茶を一口飲んだ。少々無骨な雑味が顔を出すとも思ったが、それは修之輔が普段飲んでいる羽代城で使われる茶との違いだった。この茶の特徴である華やかな風味は確かに感じることができる。 「羽代の名を冠するのに相応しい茶だ」  修之輔は汲み出しの中に揺れる翠色の茶を眺めながら正直な感想を口にした。この木村の本家で作られている独特の香りの茶葉こそ、これからの羽代の茶業に欠かせないものだった。  今、羽代藩は茶葉を専売して財政を立て直している最中である。中でも先の参勤で接触した商人の感触が良かったのが、木村の実家で栽培した茶葉だった。この茶を名産品として江戸や大阪での販路を広げようという方針が先日、羽代当主の朝永弘紀(こうき)の前で内々に決められた。  どの程度の量産が可能か、土地は十分にあるのか、必要な人手や道具を負担するのは商人か、藩か。調査や調整が必要なこともあり、まだ城の内部で検討している段階で公にはされていない。 「なんにせよ、弘紀様に取り分けてこの茶を選んでいただいたことは本当に有難いことでな」  木村が軽く汲み出しを持ち上げて献杯の真似事をする。そして怪訝そうな顔をした。 「だが弘紀様は儂の本家の茶をいつ召し上がられたのか」 「弘紀様の食事も我らの食事も御殿の同じ台所で作られていたから、何かの折に料理番が献上したのではないのか」  修之輔の語尾が多少曖昧になるのは、自分と弘紀の私的な関係に理由がある。 「そういえばうちの茶を何度か台所に持って行っていたなあ」  下働きの者達が飲んでいた茶の評判がこの藩の最高位にある当主の耳に入った経緯の不可解さより、当時を懐かしむ口調へと木村の口調は変わっていく。  羽代を統治する譜代朝永家の当主である弘紀は、今年二十一歳のまだ若い藩主である。だが当主の座について四年の間に、羽代の内部や外交に大きな変化をもたらした。  弘紀の兄である先代朝永家当主の代で滞っていた軍備の近代化や、藩札の発行による藩内の経済活動の掌握が目立って大きな実績だが、その他にも江戸や大阪の商人に任せたままだった茶の流通に藩が積極的に介入して専売品として扱うようにしたこと、またこれは幕府には隠していることだが、長崎商人を介して茶葉を外国に売る販路や西洋の武器購入の経路を確保したことなど、弘紀の代になって羽代はようやく急激に変化する世の中に追いつき始めていた。  そのような藩の内外を整える忙しい実務の間を縫って、弘紀は頻繁に修之輔に会いに来ていた。  弘紀は藩主の座に就く前に身分を隠して隣の黒河藩に滞在していた時期があり、黒河藩で剣道場の師範代をしていた修之輔は、その時の弘紀に剣術を教えていた。師弟であった縁で、後に羽代藩主となった弘紀に請われて修之輔は羽代にやってきたのだが、それから今に至るまで修之輔と弘紀の私的な関係は続いている。  だが、藩主である弘紀が下士である修之輔を気軽に訪れることはほぼ不可能である。なので弘紀は下働きに扮装して身分を隠し、弘太という偽名で修之輔や木村が寝泊まりしていた菊部屋に遊びに来ていた。木村の淹れる茶の風味を弘紀が知ったのはその時である。公には説明できない経緯だ。  修之輔は木村に今日の訪問の目的である本題を持ち出した。 「その木村の本家の有る土地だが」 「須貝の庄のことだな」 「そこへ弘紀様が視察に赴かれる日が決まった。今日から十日後だ」 「聞いた、聞いた。驚いたが、いやこれも有難いことだと本家がもうてんやわんやでな」  木村がおどけた表情を見せる。 「その視察に先立って、木村にできるだけ詳しい土地の情報を聞いて来いと山崎殿に頼まれたのだ」 「ああ、朝のうちに山崎殿から書状が届いた。準備してあるぞ」 「それからもう一つ」  修之輔は立ち上がり、座敷の外の廊下に控えていたこの家の下男を呼んだ。先ほどこちらの座敷に入る前にその下男に託したものがあって、それを座敷の中へと運び込ませた。  ほどなく縦横二尺、幅一尺ほどの木箱が座敷の中に置かれた。修之輔が木箱の蓋を開けると、そこには煎茶道具の一式が詰められていた。木村が顎に手を当てて、うーん、だか、むう、だか唸り声を漏らす。初めて見るのだろう。茶を点てて飲む茶道具と似通っているようで、まったく異なる道具も含まれている。 「これを須貝の儂の本家に送っておいて、弘紀様を持て成すときに使えば良いのだな」 「そうだ。弘紀様が使われる道具だから努々管理の行き届かぬことが無いように、と、山崎殿が云っていた」  当主が家臣の家を訪れるとき、家臣は主を持て成すために散財を強いられることが多い。だが今回のようにあらかじめ城中にあるものを遣わし、それで持て成すようにという指示は、木村のような金を持たない下士には何より有難い取り計らいだった。つつがなく視察が終われば茶道具一式は褒美として木村の家に下げ渡されることになる。  修之輔と木村は箱から道具を一つ一つ取り上げて状態を確認した後、元のように収めた。木箱の蓋を閉じて一息つくその間に、木村が尋ねてきた。 「そういえば秋生、お前、この茶器を一人で持ってきたわけではないだろう?」 「ああ。二人ほどに手伝わせた」 「そいつらにも茶をふるまおう。台所に回るよう伝えてくれ」 「城から借りた者達だから、ここについてすぐに帰した」 「じゃあ秋生、帰りは一人か」 「残雪が残っている」 「馬は人じゃあないだろう」  木村が頭を搔いた。 「秋生、お前自分でも小者を雇え。おまえの身分で一人歩きはどうも不用心では……。秋生なら不用心ということは無いのか」  でもなあ、などと木村が首を捻る。確かに修之輔の今の身分ならば外出時に供の者を二人ほどつけておかしくはない。むしろ付けない方がおかしい。 「俺は木村のように自分の屋敷をもたないから、雇ったところでその者達の住まいを保証できない」 「城を出ようと思わないのか」 「ああ」  うーん、と木村が唸る。 「城の中に閉じ込められてる、っていうなら気の毒とは思うが、秋生は自ら進んで残っているのだから、まあいいのか」  こちらの事情を汲もうとするのは周りに気配りを欠かさない木村の善良な性質によるものである。しかし修之輔には元から城の外へ出るつもりはなかった。  弘紀が行った藩政改革によって、羽代城の警備も体制が大きく変わった。  これまで警備を務めてきた番方は軍事整備に特化して、専属の家老の一人が率いることになった。修之輔がそれまで属していた馬廻り組は番方から外れて、藩主直轄のいわば親衛隊になり、藩主個人と城内の警備を専門的に担う部門となった。そして修之輔はその馬回り組頭にこの春から就任していた。  下働きをしていた頃に比べれば格段の出世だが、修之輔は今も羽代城から支給されたお仕着せの着物で日々を過ごし、三の丸の長屋の一室に寝起きしている。身分は上がったとはいえ、生まれ故郷の黒河を離れて羽代に来た時から身の回りには変化が無い。修之輔にとってはその方が心地よかった。  茶道具の入った木箱を脇に退け、修之輔は持参してきた須貝の庄の地形図を座敷に広げた。茶をわきに置き、地図を見ながら木村が説明する土地の状況を確認し、およそ半刻余りでその作業は終わった。 「だいたい儂が知るのはこんなところか。儂が村を出てからそんなに変わったことは無い。人が減っただけだ」 「充分理解できた。おそらく今夜にも聞いた内容を山崎殿に知らせることになる」 「山崎殿も忙しいことだ。本来なら今日、秋生と一緒にここに来るはずだったと手紙に書いてあった」  これまで番方を指揮していた家老の田崎が昨年隠居した。その田崎の後任がいまだ番方の職務に慣れず、以前より徒士を取りまとめていた山崎が付きっ切りで世話をしているらしい。  新たな上司と自分の配下である多くの下士の間を取り持つ山崎の仕事は、最近多忙を極めている。 「外田さんたちはまた領内の見回りだというし、この頃は皆で顔を合わせることも難しくなったなあ」  框でなく門扉まで見送りに出てきた木村が嘆息しながらそんなことを言ってきた。 「今度の徒士兵の訓練の時には顔を合わせることができるだろう」 「まあな。その後はまたここで宴会だ。秋生もどうだ」  家人の少ない木村の家は、体よく皆の溜まり場になっている。修之輔は木村の誘いに、何も役目が無ければ、とだけ返事をした。持て成しの礼を述べ、木村の家の下男に預けていた残雪の手綱を受け取ったのは、まだ夕刻にもならない時分だった。  羽代城に戻る道中、街を通る間は残雪を牽いて歩いたが、船番所を過ぎてからは砂浜に下りて騎乗して海辺で残雪を走らせた。  砂を蹴る馬の脚力と、走ることを悦ぶ馬の感情が修之輔に伝わってくる。  海の彼方に目をやれば東西に行きかう船の影がいくつか見えて、羽代の海を渡る秋風が頬に心地よく感じられた
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