天霧の樹影

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 弘紀が須貝の庄への視察に出る前夜、修之輔は夜の見回りが終わってから弘紀の私室を訪れた。当主からの正式な呼び出しではなく、隠し通路を使ってこの部屋に来るのはいつものことで、三日前にも来たばかりだった。  一昨日から降り続いている長雨のため、夜の寒さは冬の訪れすら感じさせる。弘紀は寝巻の白い単衣の上に灰色の羅紗の羽織を掛けて地図を見ていた。それはこの間、修之輔が木村の家に持っていたのと同じもので、その後いくつか続いた報告と話し合いの結果が所々に書き込まれている。 「須貝の近くに新たに茶畑を開墾したいのです」  弘紀は顔を上げないまま、広げた地図の体面に座った修之輔に話しかけてきた。 「斜面があって、土があって、開墾が比較的容易にでき、できれば河川に近い方がいい」 弘紀は手に持った扇子で地図のあちこちを指し示す。 「でも、そんな場所はすでに開墾されて田畑になっているのですよね」  そう言ってようやく顔を上げて修之輔と向き合った弘紀の顔は、ただ事実を述べているだけ、言葉の割には迷いも困惑もその表情には浮かんでいない。そもそも石高に直結する田畑をたやすく茶畑に変えることはできないのは決まりきったことだった。  だが疫病が一度流行って捨てられた土地がある。  以前、羽代の領地内で胸に入って咳や熱を引き起こす伝染病が蔓延したことがある。辺りの別の村にはほとんど病は見られず、ただその場所だけで二人、三人と死者が出るうち、次第に住人は離れたところの親類縁者を頼ってその土地から離れて行った。ちょうど羽代の海辺では干拓が始まっていて、そこで新たに土地を得ることができたのもその離散に拍車をかけた。  疫病がすべて収まるまで留まったのは古くから土地を治める家の者だけで、それが木村の実家とその縁者たちだった。弘紀はその土地、須貝の庄に目を付けた。  香り良い茶ができる土地なのに茶葉の生産に人手が少なく、放棄された耕作地は荒れたままである。木村と懇意の下士で役職に就いていない者も時折訪れて茶の木の世話を手伝っているようだ。  前から須貝の茶の風味に関心を持っていた弘紀は、そんな話を修之輔から聞いて、須貝の庄への視察を決めたのだった。 「須貝という土地の名前は、昔その辺りを収めていた豪族の名に由来するのです」  明日の視察の工程は既に綿密に打ち合わせが済んでおり、今この時に確認することは一つもない。だから弘紀の話すことは当たり障りのないことで、ただ修之輔と二人で心安く言葉を交わす、そのためだけの話題だった。  部屋に忍び込む雨音と潮騒の音の揺らぎに心を任せ、弘紀と目を見交わしながら会話を紡ぐ。 「ならば今もその流れをくむものが羽代の家臣にいるのだろうか」  修之輔が弘紀に向ける言葉は、黒河にいた時、剣術の師弟関係にあったときと変わっていない。この藩の当主に向けるにしてはぞんざいすぎる口調だが、弘紀がそれを望んでいるので直すことなくそのままになっている。 「いえ、徳川様の治世が始まる前に途絶えたと聞いています。滅ぼされたのか、住む場所を変えたのか、あるいは他の豪族と融合したのかもしれません。須貝の名を持つ者は、羽代の地に今はいません」  かつてはこの辺りに構えの大きな館があったといいます、と言いながら、弘紀は地図の片隅を扇子で示すが、そこには荒れ地とだけ書き込まれていた。 「明日、この近くを通ることになっているのですよね」 「ああ。そこにはしっかりした道が通っていると木村に聞いた。だが今の話を聞くと、その道はもともとその館を使っていた者が作ったのかもしれないのか」 「人がいなくなっても道は残る、というところでしょう」  弘紀と修之輔がともに地図に目を落としたまま言葉が途切れて、秋の終わりに細く鳴く虫の音だけが雨音に紛れて聞こえてきた。この雨は朝までに止むのだろうか、ふとそう思い顔を上げると、弘紀の顔が思ったより間近にあった。  修之輔の顔を覗き込む弘紀の目の中には、灯明の灯りがちらりと映る。弘紀は修之輔の隣に膝を付け、頬を修之輔の肩に寄せてきた。 「明日の出立は早くないけれど、貴方は朝から準備があるでしょう。だから」  するりと腕が首の周りに巻かれて体が引き寄せられた。耳に囁く弘紀の声。 「……そろそろ」  昼間ならばお仕着せの衣に着替えて御殿を抜け出し修之輔に会いに来る弘紀が、夜に修之輔を私室に呼び出すその目的は、十分に明らかだった。修之輔もその期待をもってここに来た。 「ならば馬に乗るのに支障がない程度で」  弘紀の額に唇が触れるか触れないかの距離で返事を返すと、弘紀は指で修之輔のわき腹から腰をゆっくりとなぞり始める。繰り返される仕草は弘紀からの愛撫の催促。応えて、その顎を指で支えて持ち上げて唇を軽く重ね、承諾の意思を確かに伝える。  睫毛が触れるほどに近い弘紀の黒曜の瞳に笑みが滲んで唇が離され、もう少し、と伸ばした修之輔の指は弘紀の手に柔らかく握られた。 「手加減しないで、いつもどおりに」  熱のある吐息と共に弘紀が囁き、修之輔の手を自分の襟の合わせの内へと誘った。  弘紀の素肌の温度。指の先に微かに触れる突起。もっと奥まで触れるために襟を大きく開かせる。  夜の雨音に衣擦れの音が重なって、羽代城の岸壁を打つ波の音は乱れる息をいつものように包み込んだ。  翌朝、前日まで秋の長雨が上がり、久しぶりに晴れた秋空が広がった。  須貝の庄へ向かう一行は、愛馬である松風に騎乗した弘紀の他に、修之輔が指揮する騎馬の馬廻り組と番方から歩兵隊が一組ついていく。これは日ごろの訓練の成果を確かめる意味合いもあり、歩兵隊は皆、洋銃を持っている。そして当主である弘紀自身も背に洋銃を背負っていた。  一年前の江戸参勤の時に手に入れたスペンサー騎兵銃を弘紀は気に入って、羽代に戻ってからは城の外に出るときは常に背に担いでいる。修之輔は弘紀の刀を預かって、残雪の脇に下げて運ぶ役目を言い渡された。  羽代は海が広がる南側とは対照的に、北の方は信州へと続く山脈のはしりが伸びている。須貝の庄はその山へと続くなだらかな丘陵地帯の一画にあった。 城を出て半刻ほど、道はなだらかに登り続けて、やがて山道に差し掛かった時。 「おおい、この先、道が崩れているぞう」  先行した物見がそんな報告を寄こしてきた。それを聞いた家臣の一人が周囲を見回し、畦で頭を下げている百姓に状況を尋ねた。 「どのような様子か、分かるか」 「へえ、一昨日の夜に鉄砲水が出て、あの辺りだいぶ土が流されました」 「被害はどれほどか」 「そうですねえ、崖が崩れて村の山に近いところの家が二つほど潰されちまいましたが中にいたモンは何とか逃げましたなあ」  もともと数年前に大きな地震があってから、この辺りの地盤は緩みがちだったらしい。このところの長雨でとうとう崖が大きく崩れたという。  馬であれば行けるのではないかと一行はその崖崩れの場所まで進んでみたが、鉄砲水の名残か、山から下る水が細い流れを幾筋も作り足場を不確かなものにしていた。突貫の道を作るには人数が足りず、羽代城に引き返すほかはない、という雰囲気が伝播していく。  と、急に行列から一騎が外れて土砂の上に蹄を掛けた。  他の馬が戸惑う土石の山を、その馬は難なく登っていく。馬に乗る者の背には洋銃があって、その騎馬が弘紀と松風であることに皆が一呼吸遅れて気付いた辺りで、弘紀が振り返った。 「馬が登れるなら、人も登れるだろう」  どちらも登れないから足を止めていたのに当主の乗るあの馬がおかしいのだ、そうざわめく辺りを顧みず、修之輔は残雪の腹を蹴って土石の堆積を上るよう促した。賢い残雪は危険を察知して抗うが、修之輔が右、左、と出す足に一つ一つ指示をすると、やがて要領を飲み込んだのか自らの判断で登り始めた。 「付いて来ることができたのは、貴方だけですか」  自分の後に修之輔しかいないことに気付いた弘紀が、喜ぶ顔を隠さずに松風を寄せてきた。 「崖が崩れたばかりだといいますから、少しここからは離れて待ちましょう。見晴らしのいいところがあれば、そこで皆を待てば良いでしょう」
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