白鷺の血潮

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白鷺の血潮

 須貝(すがい)忠孝(ただたか)は瞼を開けた。  目に映るのは馴染んだ(やかた)の木目美しい杉の屋根板ではなく、(ほつ)れた(かや)がそこかしこから飛び出る荒れた天井である。半身を起こせば、朝霧が荒れた小屋の中に漂っているのが見えた。  入り口付近の土間に(むしろ)を敷いて寝ているのは下人の籐佐(とうざ)だ。籐佐は正確には忠孝配下の下人ではない。須貝一族古参の郎党、川西(かわにし)の下人である。  今、荒れ屋の中には忠孝と籐佐の二人がいるのみだが、昨日まで忠孝は川西ら一族郎党に守られた陣中の将であった。  昨日の夕方、忠孝は川西らとともに草木深く生い茂る山の中腹を移動していた。  夏の盛りの山は熊蝉の鳴き声が満ち溢れて尾根から谷へと流れ落ち、(しい)(くすのき)、椿などの雑木の硬い葉が風の渡る音を大きく鳴り響かせていた。  馬はない。  鎧兜を身に着けた者も、簡単な具足だけの者も、すべて徒歩である。  しかしよくよくその武者たちの様子を見れば、鎧の仕立てや太刀の造りといい、身分の有る者がその隊列の半分以上を占めていることが明らかだった。  この数日間、須貝の一族は隣り合う武井(たけい)の一族と(いくさ)をしていた。そしてこの戦は十七歳になったばかりの忠孝の初陣でもあった。だが戦の最中、忠孝の軍は同盟関係にあった別の一族の裏切りに遭って須貝の本隊と切り離されてしまったのである。 「恐れながら申し上げます」  額から汗を流しながら歩む忠孝の前に川西が回り込み、ひざまずいた。 「我らはこのままこの道を進みます。が、行く手には敵が待ち伏せているはず。若殿はこのままここに留まってください。我ら必ずや血路を開き、大殿の援軍と共に若殿をお迎えに参ります」  川西は出陣前、己が主である須貝の大殿、須貝忠信(ただのぶ)に、後嗣である忠孝の護衛を任されていた。  そもそも今回の戦は長年抗争を繰り返してきた相手との諍いであり、適当な小競り合いで忠孝の初陣を飾ろうというのが忠信の目論見だった。長年争い続けている仇敵との戦に、慣れによる油断があったことは否めない。  それでも忠信は股肱の忠臣である川西に忠孝を任せ、川西はその信頼の恩義に報いんと若殿の身の上を必ずお守りすることを忠信に固く誓ってきたのである。  だがその任が危うい今、川西の表情は硬かった。  この局面、いまだ戦の経験の浅い忠孝の判断で乗り切れるものではなく、敗軍となってしまった忠孝の部隊の去就の一切が川西に任されていた。 「こちらにこの辺りの村の者が着る(きぬ)がございます。忠孝様、どうぞこちらにお着替えください」  川西が差し出した衣を忠孝は手に取った。それは如何にも村人が着ているような粗末な麻の服であった。  村人に身を(やつ)して敵の目を欺く卑怯さを嫌ったか、若い忠孝の眉が一瞬、顰められた。だが自分が敵に討ち取られれば須貝一族すべてに影響が及ぶことも、若年ながら既に英才の誉れ高い忠孝には分かっていた。  忠孝は自ら赤糸威(あかいとおどし)の鎧兜を取って川西へ渡し、直垂(ひたたれ)も袴も取って粗末な衣を身に着けた。  身分の低いものが着る衣に着替えても、凛と光る目に隆とした鼻梁、その顔立ちは高貴さを失わず、事情を知らない者でも一目見れば忠孝のその身分のほどが窺い知れただろう。  川西は受け取った忠孝の鎧具足を忠孝と背格好が似ている一人の若者に渡した。その若者は川西の息子だった。 「お預かりしました若殿の鎧、我が息子が身に着けますことをお許しください。これより敵前を突破いたすとき、我が息子を若殿の影武者といたします」  最も命を狙われる役回りを自分の息子に割り当て、後嗣を失う危うさを主と共有することは、川西にとって血族の命運をかけた主への忠義でもあった。  川西の息子が忠孝の鎧を身に着ける間、川西は列の後ろ辺りに向けて何か手で合図をした。  すぐに、具足もつけない粗末な身形の者が躓きそうな勢いで駆け寄ってきた。 「若殿、この者は我が下人の籐佐と申す者。戦には役に立たぬ者なので、若殿の身の回りの世話に置いていきます。生かすも殺すも如何様にでもお使いください」  川西がどこかの荘を襲った時に拾った者なのだろう、薄汚れて背を屈めたその籐佐という者は、忠孝の前にまろび出てそのまま地に伏した。 「では若殿。この川西、必ず、必ずやお迎えに参ります。どうぞそれまでこの辺りに御身をお隠しください」 「そなたの忠心は十分に存じている。無事に父上のもとに辿り着け。待っている」 「はっ」  こちらを見上げる川西の目じりに浮かぶ涙を認めたと思ったが、すぐに川西は隊列の先頭に立って行軍を再開した。  忠孝と籐佐は川西らを見送ることなく、脇に迫る山の斜面をそのまま登り始めた。やがて二人の足元から人の気配は無くなった。  そうして山の息吹と熱気に息を切らせながら藪を漕ぎ、ひたすら斜面を登り続けているうちに、日暮れ間近になって二人は尾根筋に出た。  見晴らしの良さを取るべきか、身を隠す影を探すべきか、迷いながら緩やかになった上り坂を進むと急に細い山道が現れた。それは獣道のような縦横無秩序に走るものではなく、人の手によって切り開かれた整然とした筋のある道だった。  山頂をぐるりと回り込むその山道を辿った先、刻々と暗くなる視界の中に小さな小屋があった。近づいて構えを見ると辛うじて庵と呼べなくもないが、如何にも無人で寂れている。  昔、西から流れついた伝導僧が山の奥に庵を構えたことが度々あったというが、そのうちの一つでもあったのだろうか。  中を覗いてみれば山々を巡る修験者が今もここを使っているのか、屋根と壁にところどころ隙間はあってもそれなりに用を成していて、食べ物こそないが土師器(はじき)の壺の中には塩があった。  戸口で足を止めた忠孝の脇を通り、籐佐は躊躇なく小屋の中へと足を進めた。  そして空の雲を微かに染める残照を頼りに、一段高く誂えられた床が座敷の体を成す一角に上がり込み、襷にしていた(きれ)であたりの虫や埃を払ってから土間に立つ忠孝の足元に平伏した。 「御座の準備が整いました。どうぞお休みくださいませ」 「うん」  忠孝は一言頷き、荒れた座敷に上がった。  畳はない。足を進めるとささくれた板敷きのところどころで板が(たわ)み、踏み抜きそうな心許なさがある。  忠孝は閉じるすべもなく開いたままの窓から外を眺めた。辺りは闇に沈み始めている。ここ数日の記憶によるなら月の出は遅い。星明りもまだ先だろう。  忠孝が籐佐の用意した場所に腰を下ろすと、籐佐はそれを気配で察したのか自分は入り口近くの土間に座り背を丸く屈めた。 「私はこちらで貴方様をお守りいたします」  闇の中から抑揚のない声が聞こえた。
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