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第3話 訃報
「手紙? 何のことよ。紗理奈からの手紙なんて知らないわよ!」
一瞬、理恵は紗理奈が何を言っているのか理解できずに聞き返した。
『…クスクスクス…(ギギギィィィ)』
返ってきたのは微かな笑い声とあの異音。
怖気を誘うその音を聞きながら、理恵は1つのことに思い至る。
(まさか)
脳裏に浮かんだのは最近届くようになった、あの『白い手紙』だ。
けれど、それは有り得ない事だった。
紗理奈は理恵のマンションを知らないはずなのだ。
2年前に引っ越したものの、実は理恵は紗理奈はおろか実家にすら住所を教えていない。引っ越ししたことも話していないのだ。
だから両親や紗理奈が知っているのは以前に住んでいたアパートだけだ。
一応入社手続きの関係上、勤務先の名前は教えてあるが、個人情報に煩い世情を反映して会社も例え身内であっても理恵の同意なしに住所を教えることはあり得ない。
だが……。
「どういうこと? もしかしてうちに届く何も書かれていない封筒と紙って、あなたの仕業なの? 答えて!」
『…ウフフフフ…(ギギギ)おね(ギィィ)ん…(ギィィィィィィィ!!)』
一際大きな異音が響き、前触れなしに通話が切れた。
『ツーツーツーツー…』
「何なのよ!」
苛立たしげにスマートフォンを睨み付ける理恵。
しかし同時にあの気味の悪い異音と、常にない異様な雰囲気を感じさせる紗理奈との通話から逃れられたことを安堵する気持ちが沸きあがっていた。
不意に視線を感じたような気がして、理恵は背後を振り返る。
しかし、そこに理恵に視線を向けるような人は誰もいない。
先程までと変わらず、周囲は外灯と立ち並ぶ店舗の灯りで充分に明るい。しかし理恵には建物の陰や所々にある暗闇から誰か、或いは何かが自分を見ているような、そんな不安感に襲われていた。
マンションまではもう100メートルも無い。
恐怖を振り切るかのように足を速め、マンションのエントランスに飛び込む。
そこはいつもと変わらない明るさと、人が生活している生気に満ちているように感じられて、理恵は安堵感で大きく息を吐いた。
エントランスのすぐ脇には小窓があり、その向こうには管理人もいるはずだ。
ようやく人心地つき、それでも理恵のテリトリーである自宅まで早く辿り着きたくてオートロックのドアを通り抜ける。
そしてポストを開け、理恵は凍り付いた。
ポストの中に1つだけあったもの、それはあの『白い手紙』だった。
「白河さん、こっちのデータの取り纏めお願いできる?」
「あ、はい! 急ぎですか?」
「いや、明日中に終わってれば大丈夫だよ。でも、ここ数日遅くまで残業してるみたいだけど、大丈夫?」
上司がファイルを理恵に手渡しながら、そう心配するように尋ねる。
理恵はそれには直接答えずに曖昧に笑顔を見せてファイルを受け取り、再びパソコンの画面に向かう。
紗理奈からの電話があってから5日が経つ。
あれから理恵は嫌なことから逃避するように仕事に没頭していた。
自宅に帰るのも9時を過ぎてからだ。
『白い手紙』はあの日から、帰ると毎日ポストに投函されるようになっていた。
本当に紗理奈があの手紙を入れているのかは分からない。
マンションの管理人にも誰か自分のポストにあの手紙を入れているところを見ていないか聞いてみたが、思い当たることは無いらしい。
あれから紗理奈からの電話は無く、意を決して理恵が電話をしても直接留守番電話サービスに繋がってしまい、話は出来ていない。
陰鬱な気分が募るが、話を聞いてくれそうな可奈は、体調を崩したらしくここ数日休んでいて会っていない。
結局、必要以上に仕事を抱え込むことで現実逃避するのが精一杯だった。
トゥルルル、カチャ。
「はい、営業部。え? あ、はい。すぐに伝えます。白河さん、受付にお客さんだって。第2応接室ね」
「は、はい、えっと、すぐ行きます」
内線を取った向かい側の同僚に言われて理恵は席を立つ。
(えっと、誰だろ。今日は私に来客の予定は入ってなかったけど)
投資顧問会社の営業としての仕事柄、来客は珍しいことではないが、アポイント無しというのは殆どない。それに普通ならまず受付から理恵に確認があり、その後に応接室に通すはずなのだが。
気にはなったが、行けば分かるだろうと理恵は教えられた第2応接室に向かう。
1階にある受付の左側に並んだ応接室の2のプレートが掛かったドアをノックして部屋に入る。
「失礼します。白河です」
部屋に居たのは2人の人物。
1人は30代半ば位だろうか、何かスポーツでもしているかのようにガッシリとした体格と鋭い目が印象的な男性。
もう1人は20代と思われる背が高く、快活そうな表情の、こちらも男性だ。
どちらも見覚えがなく、理恵は首を傾げる。
「突然お邪魔して申し訳ありません。私達はこういった者です」
年長の方の男性が名刺を差し出したので受け取り、理恵も自分の名刺を出す。
「……警察の方、ですか? あ、どうぞお掛けください」
名刺には警視庁荒川警察署刑事課 警部補 大林 直人 と印刷されている。
もう1人も同じ警察署の巡査長 向井 聡 というらしい。
突然警察が自分を訪ねてきたのには驚いた。だが理恵には何も思い当たることが無い。
働いているオフィスは新宿だし、住んでいるのは品川区だ。
警察署の名前からして荒川区を管轄しているのだろうが、最近は行った覚えがないからだ。
「それで、私に何か?」
対面のソファーに座り、理恵が切り出す。
大林は一緒にいた向井と一瞬目を合わせ、すぐに理恵を真っ直ぐに見た。
「白河紗理奈さんは、あなたの妹さんで間違いありませんか?」
「は、はい、そうですが」
紗理奈の名を聞いて、妹が何かをやらかしたのだろうかと思った。高校時代からあまり素行の良くない人達と交流することがあり、時折母親が学校や警察に呼ばれることがあったからだ。理恵としては妹の尻ぬぐいなど御免被りたいのだが。
そんな理恵の戸惑いを余所に、大林と向井は居住まいを正し、ゆっくりと口を開いた。
「落ち着いて聞いて欲しいのですが、その、白河紗理奈さんが秩父の山中で昨日、遺体で発見されました」
「え?! あ、あの、紗理奈が、ですか? えっと、どうして…」
大林の言葉に思考が止まる。
死んだ? 紗理奈が?
何故? どうして?
確かに理恵と紗理奈の仲は悪い。
顔を合わせるのも声を聞くのも苦痛でしかないし、家族だなどと思ったこともない。大嫌いだと言って良い。
だが、それでも死んで欲しいとまでは思わなかったし、嫌っているだけで憎悪していたわけではない。ただ関わりたくないだけだ。
わずかな間、脳裏に紗理奈の顔が浮かんだが、すぐに理恵は思考を取り戻す。
突然の紗理奈の死には驚いたし、戸惑いもある。だが、理恵にとっては嫌な隣人程度の感覚でしか無く、悲しみの感情は浮かんでこなかった。
自分は薄情なのだろうか、と、別の角度の想いは浮かんだが。
理恵は一度目を瞑り、大きく息を吐くと大林に質問した。
「それで、紗理奈は何故死んだのでしょう。両親にこの事は?」
冷静な理恵の言葉に大林は少し驚いたようだ。
「ご両親には別の者が連絡しているはずです。お住まいが山口県、でしたか? 確認のために一度署まで来て頂かなくてはなりませんので。その、貴女はそれほど驚いていないように見られますが」
言いながら大林は理恵をジッと見つめる。それは疑っている、というより反応を観察しているかのようだ。
「ここ数年、妹とは顔を合わせていませんでしたし、元々姉妹仲は良くありませんでしたから。あ、といっても別にすごく何かをされたわけじゃありませんし、単に関わりたくないって程度のことですけど」
理恵は途中で慌てて付け足す。
まだ紗理奈がどうして死んだのかを聞いていないが、変に疑われるのは困る。
「そうでしたか。ああ、別に貴女を疑うとかそういうことはありませんから安心してください」
「そ、そうですか。あの、それで」
「コホン、妹さんの死因ですが、詳しいことは現在調査中ですが、知人、いや、元交際相手と言って良いのかな? その男性に殺されたということが分かっています」
内容そのものは衝撃的であるものの、理恵から見て、紗理奈ならばそういうこともあるかもしれないと感じていた。
人づてに聞いたことがあったが、紗理奈は母譲りの整った容姿とその天真爛漫な性格で男性から人気があったが、相手を振り回したり、興味が無くなるとあっさり離れていったりしていたらしい。
であれば、交際していた男性からの恨みを買うこともあったのだろう。
大林は気遣わしげに言葉を選びながら説明を続ける。
「事件の発覚は今月の25日。足立区在住の木村という男が街中で奇声を上げながら道路に飛び出してトラックに跳ねられ、死亡しました。身元の確認のために男の住んでいた部屋に警察官が入ったところ、紗理奈さんの殺害と遺体を遺棄した場所を仄めかす紙が見つかりました。
そのメモを元に捜索したところ、秩父の山中で地面に埋められた紗理奈さんを発見したという経緯です。遺体は死後1ヶ月ほど経過していて損傷が激しい状態なので、あまりお見せするのはお勧めできません。……大丈夫ですか?」
手元の手帳を見ながら説明していた大林が目を上げると、理恵が真っ青な顔で呆然としていた。
「……25日……死後1ヶ月?……そんな……それじゃ、アレは……」
「白河さん? どうしました? 何かご存じなんですか?」
突然の理恵の変化に、大林は向井と顔を見合わせると刺激しないようにか、心持ち優しげに声をかける。
「あ、あの! せ、先週、私の携帯に紗理奈から電話が来てるんです……」
大林に声を掛けられて我に返った理恵が、勢い込んで言葉を発し、途中で尻すぼみに声が小さくなる。
自分が荒唐無稽なことを言っているのを理解したからだ。
「電話? 先週の何曜日ですか? それは間違いなく妹さんからでしたか?」
「あ、え、っと、せ、先週の金曜日です。その、電話が遠くて、すごい雑音も入っていたので絶対とは言えないんですけど、声は紗理奈のものだと思いました」
「どういうことですかね?」
「確か、被害者の携帯電話は見つかってないんだよな?」
「はい、所持品の中や男の部屋、被害者の自宅からも見つかってません」
大林が向井に確認する。
そして、少し考えた後に理恵に向き直る。
「その電話が掛かってきた時間は分かりますか? それと他に気がついたこととか、その、妹さんに似た声のイントネーションに違和感はありませんでしたか?」
理恵は自分の言葉を頭から否定されることなく話を促され、ホッとしながら記憶を辿る。
「時間は、あ、履歴が残っているはずです。えっと、これです。あと、気がついたこと、ですか、その、雑音、というか、ガラスを引っ掻いたような音が酷くて、あまり聞き取れなかったんです。声も、いつもより隠ったような響きだったので。ただ、声や笑い方なんかは妹のもののように感じました」
理恵はそう言って、スマートフォンに残っていた通話履歴を見せ、覚えている限りのやりとりを話した。
「なるほど、確かに妹さんの携帯電話から白河さんに電話があったのは間違いなさそうですね。となると、共犯者がいるのか? ああ、いや、えっと、それで、その会話にあった手紙、というのは?」
「1ヶ月くらい前から家のポストに入れられるようになった手紙です。ただ、手紙と言っても宛名も書かれていない真っ白な封筒と、中身も真っ白なコピー用紙が一枚入っているだけなんですけど。でも紗理奈は私の住んでいるマンションを知らないはずなんですけど」
話を聞き終えた大林は理恵を安心させるように柔らかく笑みを浮かべる。
射貫くような鋭い目つきが途端に優しげなものに変わった。これも職業的な技能なのだろうかと理恵は益体もないことを思う。
「その手紙ですが、気味が悪いとは思いますが、捨てずに保管しておいて貰えますか? 後日取りに伺いますので、出来るだけ触らずにピニールにでも入れておいて頂けると助かります。
それから手紙以外に何か不審な事があったらいつでも結構ですので遠慮無く署まで連絡して下さい。白河さんの所轄警察署にも連絡しておきますので、そちらでも良いですよ」
「あ、ありがとうございます。なにかあったらその時はお願いします」
理恵がそう頭を下げると、大林は向井に目配せをして立ち上がった。
「では、何か新しく分かったらまたご連絡差し上げます。お忙しいところありがとうございました」
そう言って出ていった2人の背中を見送り、理恵はソファーに崩れるように座った。
大林達の前では何とか落ち着きを見せていたが、理恵の頭の中はグチャグチャで思考が纏まらない。
分からないことだらけで何から考えれば良いのか。
それでもここでこうしていても何にもならない。そう考えてソファーから立ち上がったとき、警察からの連絡を受けたのだろう、母親からの電話があった。
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「とりあえず、令状取って携帯電話会社に情報開示の請求をしてくれ。25日の通話記録と発信場所の特定だ。俺は白河理恵と白河紗理奈の関係と交友関係を調べてみる」
「了解しました。ってことは、共犯者がいるんですかね?」
理恵の勤める会社のビルを出た大林と向井は近くのコインパーキングに駐めた車に乗り込み、打ち合わせをしながら署に戻るために移動を始めた。
向井の質問に大林はわずかに間を空ける。
「共犯かどうかは分からない。木村のメモには共犯者を窺わせる言葉は無かったし、犯行動機も個人的な怨恨なのは間違いなさそうだしな」
「えっと、被害者に貢ぐために会社の金を横領して、結局発覚してクビ。そしたら捨てられた、ですか。男の自業自得って感じですけど、まぁ、恨む動機としてはありがちですよね」
向井がヤレヤレといったジェスチャーを交えながら呆れたように言う。
確かにシチュエーションとしては創作でも現実でもありふれた動機ではある。
会社の金に手をつけてまで思いを寄せた女が、金が切れた途端に男を捨てる。憐れですらあるが、実際には横領された会社が一番の被害者だろう。
「そうだな。だからもしかしたら、白河紗理奈の事件と白河理恵に嫌がらせめいたことをしている件は関連がないかもしれない。ただ、そうなると白河紗理奈の携帯電話をどうやって手に入れたかが分からない」
大林の言葉に頷きながら向井がさらに質問を重ねる。
「可能性があるのは白河紗理奈と木村の2人と面識があり、白河理恵に悪感情を持つ人物、ですか? でもあの姉妹は殆ど交流がないし、相手が住んでいる場所すら知らないんですよね?」
「嫌がらせ程度の悪感情なんて、何が切っ掛けになるか分からんからな。殆ど交流がないって言っても親を通じて多少は知ることもあるだろうさ」
大林が見たところ、理恵が嘘をついているような様子はない。だが、本人は住所を知らないはずだと言っていたが、所詮は普通の一般人だ。どこかで無意識にポロリと話してしまったことがあるかもしれないから、あまりアテにはならない。
「確かに。姉の方もクール系美人って感じでモテそうだし、同性の妬みとか受けてても不思議じゃないですよね。妹に到っては複数の男と結構派手に遊んでたみたいだし」
「とにかく、3人の周囲の人物の洗い出しだ。俺達の仕事はあくまで白河紗理奈の殺人に関する捜査だからな。白河理恵への嫌がらせが事件に関係していないことが分かればそれまでだ」
「そうですね。あ~あ、単純な殺人事件で簡単に調べてから被疑者死亡の書類を送って終わりだと思ったんですけどねぇ」
「どうせ毎日仕事するのは変わらないんだから、別に問題ないだろ? 署にいれば書類仕事を押しつけられるだけなんだから、やることがあるだけマシだよ」
ぼやく相棒に苦笑いをしながら、そう言って大林は話を打ち切った。
助手席で令状を取るための申請書をノートパソコンで作り始めた向井を余所に、大林は現在までに集まっている情報から感じる微かな違和感に、何とも言えない不安を覚えていた。
事件としてはそれほど特殊なものではない。よくある痴情の縺れと横領事件の組み合わせだ。
姉の方も、若くて美人なら同性からの嫉妬やストーカーによる嫌がらせなんか珍しくもない。
だが、姉妹仲が悪く殆ど交流も無い妹の電話を使ってまでする意味がわからないし、さらに真っ白で何も書かれていない手紙を毎日のようにわざわざ届ける意図も理解できない。
それに、妹が殺された時期と手紙が届き始めた時期、容疑者の木村が死んだ日に妹の携帯電話から姉に掛けられた電話、その日から届く頻度の増えた『白い手紙』。
その奇妙な符合が妹の死と木村の自殺、姉への嫌がらせが無関係では無いことを表しているのではないか。
大林が警察官になって10数年。
これまでに殺人事件を含め多くの事件を担当してきたが、その、どの事件とも根本的に異なる、なにか、怖ろしい事が起こっている。
熟練の警察官をして、踏み込むのを躊躇わせるような、そんな不安が大林の脳裏を過ぎっていた。
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