第5話 恋人

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第5話 恋人

 ピン、ポ~ン。  チャイムの音が響き、理恵はノロノロとベッドから身体を起こす。  横になっていても浅い眠りが断続的に訪れるだけで体調が良くなった気がしない。  あの、異様な目を見てしまった理恵はその場で気を失ってしまったらしい。  気がついたときにはインターホンの前で倒れており、時間は深夜3時を過ぎていた。  身体を起こすとひどい寒気と身体の節々に痛みがあった。  風呂上がりの薄着の状態で冷たいフローリングに長時間横たわっていたのだ。身体は冷え切り、発熱もしているようだった。    痛みと朦朧とする意識を何とか堪え、もう一度風呂にお湯を張り身体を温めた。  もっとも悪寒が収まることはなかったし、吐き気もこみ上げてきたのでかえって体調の悪さを自覚することになってしまったが。  その後は眠る気にもならず、休みながらゆっくりと準備を整えていつもよりもかなり早い時間にマンションを出た。  出る前に恐る恐るドアモニターを見たが、そこにはいつもと変わらない玄関前の光景が映し出されているだけだった。    普段の倍以上の時間を掛けて駅まで歩き、3倍の時間を掛けてオフィスまで辿り着いた。  体調は最悪。悪寒はますます酷くなっているし、頭も喉も身体の関節という関節もギシギシと痛みを訴えている。熱もあると思われた。  だがそれでも理恵はマンションに居たくなかった。だれか、安心できる人の側にいたかった。  だからといって平日の早朝に恋人を呼び出すわけにはいかない。  結局理恵が選んだのは会社に出勤することだったのだ。    あれほど早く家を出たのに、オフィスに辿り着けたのは始業ギリギリの時間だった。 「あ、おは…、ど、どうしたの理恵ちゃん、顔色酷いよ」  デスクに着いた理恵に挨拶しようとした可奈が、そのあまりの様子に慌てて顔を寄せた。 「あ、先輩、だいじょ……」  理恵の記憶はここで途絶えている。  次に意識を取り戻したのは病院のベッドの上だ。  診断は感冒つまり風邪だ。  一日だけ入院し、迎えに来てくれた可奈の車でマンションまで帰ってきたのは昨日のことだ。  本音では帰って来たくはなかったが、わざわざ来てくれた可奈にこれ以上心配を掛けたくなかったし、一泊とはいえ病院で過ごしたことで多少は気持ちも落ち着いてきていた。    だがそれでもやはりマンションに1人で居るとあの時の恐怖が蘇ってきて、安心して眠ることが出来ていなかった。  眠りについても、また玄関のドアノブを誰かが弄っているような気がしたり、ドアモニターの向こうにあの目がこちらを覗いている気がして気が気ではなかった。  上司からは、倒れるほどの体調不良を押して出勤したことに対し、電話でおしかりを受けた。そして、体調が回復するまで出勤しないように申し渡された。  ブラック企業が取りざたされている中でこれほどホワイトな職場もそうは無いだろうと思う。    ピンポ~ン。  身体を起こしたものの思考が定まっていなかった理恵だったが、そこに再度のチャイムが鳴る。  上着を羽織り、リビングのドアモニターを恐る恐る見る。どうやら1階のエントランスからだったようで、ホールと可奈の姿がモニターに映し出されていた。  すぐにインターホンの応答ボタンを押し、返事をしてからオートロックを解除する。  わずかな時間の後、玄関のチャイムが鳴り、理恵が応答する前に玄関先から声が聞こえてきた。 「お~い、理恵ちゃ~ん、差し入れだよ~」 「す、すぐ開けます」  慌てて通話ボタンを押して言い、玄関の鍵を開ける。   「どう? って、まだ駄目っぽいわね。ご飯は食べた? まだなら何か作るわね」  パンパンに膨れたスーパーのビニールを手に、玄関を入ってきたのは可奈だ。  時間を見るともう7時過ぎている。 「すみません、先輩。でも大丈夫です」 「そんな顔色で大丈夫って言われても信用できません! こっちは任せて、横になってて」  そう言って可奈は理恵の背中を押してベッドに追いやる。 「先にお湯とタオルを用意するわね。身体を拭いて着替えちゃいましょう」  強引な、それでいて温かい可奈の言葉に理恵はこみ上げてくるものを堪えながら頷いた。      可奈の作ってくれたお粥をゆっくりと食べていると身体が温まり、気持ちも随分と落ち着いてきたような気がしている。 「はぁ、先輩、良いお母さんになりそうですね。美味しいです」 「あはは、そうだと良いけどね。理恵ちゃんみたいな子だったらすごく甘やかしそうで」  そう笑いながら可奈は愛おしげにまだ全然膨らんでいないお腹をさすった。  自分も産まれる前はこんな風にしてもらったのだろうか。そんな考えが頭を過ぎるがすぐに打ち消す。今更考えても意味は無い。   「でも、どうしてあんな無理をしたの? あの様子じゃ朝起きたときから調子悪かったんでしょ?」  やはりそこが気になったのか、洗い物を終えてから改めて可奈が聞いてきた。  あまり心配を掛けたくはないが、これだけ迷惑を掛けて何も話さない訳にはいかないだろう。  そう考えた理恵は、この一月の間に身の回りで起こったことを話し始めた。  突然ポストに投函されるようになった『白い手紙』、妹の死とその死因、その発覚と前後して理恵に掛かってきた電話、訪ねて来た刑事、そして、あの夜のモニターに映し出された目。   「うわぁ……なんというか、そりゃ気味が悪いわ。警察には相談したんでしょ?」 「一応、妹の件を捜査している刑事さんには何通かの手紙を渡して、電話の事も含めて調べてくれるそうなんですけど」  実際にどこまで調べてくれるのかはわからないし、その後どうなっているのかも聞いていないので何とも言えないのだ。 「とにかく、電話の件は別として、手紙とかドアノブガチャガチャとかはやろうと思えば誰でも出来ることなんだから、アンタはストーカーを警戒しなさい。何かあったらいつでも私に連絡して」 「あ、いえ、そこまで迷惑掛けるのは、先輩だっていま妊娠初期で大変だし」 「大丈夫よ。無理するつもりはないし、何かあったら旦那に来させるから。だから遠慮なんかしないで」    自分はなんて恵まれているのだろうか。  正直、自分の人生を呪ったこともあったが、こんな良い職場と素晴らしい先輩に巡り会えたのなら、これまでの自分の努力が報われて余りあるのではないだろうかと理恵は涙ぐんでいた。  Pipipipipi。  突然響いた電話の音に、理恵はビクッと肩を振るわせる。  ベッドサイドに置かれたスマートフォンに表示される名前を恐る恐る覗き、安堵の溜め息を吐いた。  そこには恋人の柴垣彰の名があった。  今日会う約束をしていたが、理恵の体調不良をメールで伝えてあったので連絡してきたのだろう。   「彼氏?」  一瞬心配そうな顔をしたが、理恵の表情で相手を察して可奈が確認した。  理恵はその問いに頷き、電話に出る。 「もしもし、あ、うん。大丈夫、まだ少し熱があるけど、会社の先輩が来てくれて。え? うん、わかった。待ってる」 「彼氏君、来るの?」 「はい。心配してくれてるみたいで」 「そっか、それじゃ安心だね。んじゃ、私は帰るね。絶対に1人で悩んじゃ駄目よ。週明けには会社で会えるわよね?」    可奈がそう言って立ち上がる。 「あ、タクシーでも呼びましょうか? もう遅いし」 「大丈夫よ。車で来てるから。駐めてあるの目の前のパーキングだし。今は会社にも車で通ってるのよ。さすがに今のこの身体であのラッシュはきついから」  理恵はその言葉に納得して頷き、可奈を玄関先まで見送る。  可奈は明るく手を振りながら廊下を歩いていった。      可奈が帰ってから程なく、再びエントランスからのチャイムが鳴り、モニターに彰の姿が映し出された。  可奈の時と同様にオートロックを解除し、玄関のモニターを点けたまま待っているとすぐに彰がドアの前に立つのが見えた。 「よう。具合はどう?」  すぐに開けたドアを潜って玄関に入りながら彰が尋ねてくるので、理恵も安心させるように微笑みながら迎え入れた。 「もうだいぶ良くなってきたわ。さっきも会社の先輩、あ、もちろん女の人よ、その人が来てお粥とか作ってくれたの」 「そうか。あ、これ、プリンとかだったら食べられるかなって思って買ってきた」  会社の先輩、というところで彰が眉を寄せたので慌てて同性であることを強調して説明する。  彰もそれには安心したように笑みを浮かべ、持っていた紙袋を理恵に手渡した。    リビングに入り、理恵が受け取ったプリンを冷蔵庫に仕舞い、お湯を沸かしていると、彰が理恵を背後から抱きしめて顔を近づけた。 「あ、駄目、風邪移っちゃうわよ」 「いいよ別に。もし移ったら理恵に看病してもらうから」  顔を背けた理恵の顎を自分の方に向け、キスを交わす。  理恵もそれ以上は抵抗せずに受け入れる。  彰はさらに理恵の胸に手を伸ばしてきたが、理恵は彰の手をそっと押さえて抱きしめられている腕から抜け出す。 「ちぇっ」  彰もさすがに理恵の体調を考えて強引に求めることはしなかった。   「思ったよりも顔色も良いようで安心したよ。でも、これまでそんなに酷い病気とかをしたことなかったんだろう? いったいどうしたんだ?」  彰が心配そうに、それでいて何かを探るように見る。 「あ、ええ、妹の葬儀とか色々あって疲れが溜まってたんだと思う。もう大丈夫だから心配いらないわ」  理恵は淹れたての紅茶を彰の前に置き、安心して欲しいと微笑む。だが、どこか無理をしているようなその表情に彰が納得することはなかった。  少しの沈黙の後、意を決したように彰が口を開く。   「な、なぁ、理恵の具合が悪いときにこんな事を言うのは卑怯かもしれないけどさ、その、俺と結婚しないか? そうすれば今回みたいにいきなり体調崩したり、困ったことがあったりしても一緒にいられるし」  来た。と理恵は思った。  とうとう恋人が直接的にプロポーズをしてきた。  以前からその意思は感じていたし、いつかは言われるものだとも思っていた。だが、理恵はまだそれに対する答えを出せていない。 「その、ありがとう。彰がそう言ってくれるのは嬉しい。でも、私には自信がないの。だから……」 「自信なんて無くたって良いじゃないか! 誰だって自信があって結婚するわけじゃない。結婚してから色々苦労して、2人で一緒に頑張って家庭を築くもんだろう? 俺達だってそうなれるはずだ! 何だったらすぐに籍は入れなくても良い。まずは一緒に暮らさないか?」    彰は理恵に手を伸ばし、その手を握りながら真剣な顔で言い募った。 (そう、なのなのかな? 先輩も似たような事は言っていたけど、でも……)  彰が理恵の目を射貫くようにジッと見つめる。  理恵はその目から逃げるように俯いた。 「す、少しだけ時間をくれない? 真剣に考えてみるから。その…」  長い沈黙の後、出た言葉は結局先送りするものだった。  彰は失望を堪えるように溜め息を吐く。   「わかった。でも出来るだけ早く答えを聞きたい。それに、俺は諦めないからな。さっきも言ったように、まずは同棲からでも良い。一緒にいたい」  わずかに怒りを湛えた目で理恵を見ながら、ゆっくりと、言い聞かせるように彰が言う。  理恵はそれに小さく頷いた。 「そ、それじゃ、あんまり長居すると身体に障るから、そろそろ帰るよ。また電話する」 「ええ、今日はありがとう。お休みなさい」    玄関先で見送ろうとした理恵を彰は抱き寄せ、思いの丈をぶつけるように荒々しくキスをした。  理恵もそんなキスに抵抗することはなく応える。  互いの舌が絡み合い、吐息に熱いものが混じり始めた頃、彰は理恵から腕を解き「おやすみ」と言って部屋を出て行った。  その姿はどこか寂しそうで、理恵は罪悪感を覚える。  近いうちに結論を出さなければいけない。  そう心に刻みながら理恵はベッドに戻っていった。     -----------------------------------------------      カンッ!  些か乱暴にグラスをカウンターに置き、思いの外大きく響いた音に男、彰は眉根を寄せた。 「チッ! ……同じものをもうひとつ」  思わず舌打ちした彰だったが、バーテンダーがこちらを見ているのに気づき、バツが悪そうに空になったグラスを掲げてオーダーを追加する。    理恵のマンションを出た彰は、家に帰る気にもならず、繁華街に来ていた。  煌びやかなビルの裏手にひっそりと置いてあった看板に誘われて入ったのがこのバーだ。  店内は少し薄暗い程度の照明に抑えられ、耳に障らない音量でジャズが流れている。  店員は口髭を湛えたバーテンダーが1人と、30代くらいの落ち着いた雰囲気の女性が1人給仕をしているだけ。週末だというのにそれほど店内に客は多くなく、ゆったりとした時間が流れているかのようだった。  正に大人の隠れ家的な雰囲気の店だ。    奥側のカウンターに座りシーバスリーガルを2ショット、ロックで注文した彰は先程までの理恵とのやりとりを思い出していた。  元々今日は理恵にプロポーズをしようと思い、約束を取り付けていた。  しかし、今朝になって理恵からメールで”風邪で熱があり、会社も休んでいる。約束を延期して欲しい”との連絡が入っていた。  肩すかしをくった気分だったが、体調不良ならば仕方がない。それでもせめて顔くらいは見たくてマンションの近くまで行き、電話を入れたのだ。    招き入れてくれた理恵は、確かに体調が優れない様子ではあったが、その分、その儚そうな雰囲気はひどく色気があり、彰の庇護欲をかき立てた。  それに押されるように、仕切り直そうとしていたプロポーズが口をついて出てしまったのだ。  事前に何と言おうか色々考えたにもかかわらず、突発的な衝動に駆られたために、その言葉は満足のいくものではなかったが、それ以上に彰を落胆させたのは、プロポーズを聞いた理恵の反応だった。    最初に表情に浮かんだのは『困惑』次いで『躊躇い』。  理恵にあまり結婚願望が無いことは察していた。  会話が結婚や将来の事になると、それを誤魔化すように話を逸らすことが多かったし、複雑な家庭環境であまり両親からの愛情を受けられなかったことも知っている。  だが、それでも付き合い始めてもう4年が経つ。  理恵からの愛情は確かに感じるし、互いの家に泊まることも度々ある。セックスだって処女だった頃と生理の時以外で拒まれたことはない。  だから少しくらいは悩む素振りを見せても受け入れてくれると思っていた。  だが結果は『保留』だ。  断られなかっただけマシだとは思うが、それでも失望は免れない。    こうして苛立ちを抑えきれずにやけ酒を呷っているのだから、自己嫌悪も混ざってさらに不機嫌になっていた。  2杯目のスコッチを飲み終え、追加を頼もうと顔を上げると、彰の隣に誰かが座ったのを視界の隅で捉えた。  横目でチラッと見ると、女だ。それも以前にあったことがある。  どこだったか。  記憶を辿るように女の顔を見ていると、視線が合う。 (あ、確か『みすず屋』で会った)   「どうかなさったんですか? なにか機嫌悪そうですね」 「あ、いや、そんなことは、ある、かな?」 「くすくすくす。何ですか? それ」  彰が思い出したのと同時に、女が声を掛けてくる。  それにしどろもどろに返すと、女は可笑しそうに笑った。 (けっこう可愛い、よな)  女を見ながら彰はそんなことを思う。    女の格好は、以前会ったときと同じ、桜色のワンピースにレース付きのカーディガンだ。  印象もその時と変わらず、彰よりも年下に見えるのに妙に人を不安にさせるような妖艶さを持っている。 「いえ、ちょっと嫌なこと、っていうか、思い通りにならないことがあって、気分を変えようと飲みに来たんですよ」 「そうなんですか? もし良かったら話を聞かせて貰えませんか? 人に話すと気持ちが楽になるって言うじゃないですか」    気がつくと、彰は恋人にプロポーズしたことや返事を保留されてしまったこと、早く家庭を持ちたいことなどを、つらつらと女に語っていた。  何故初対面に近い行きずりの女にそんなことを話そうと思ったのか、彰には分からなかった。  ただ、女の目を見ると、自然と口を吐いてきたというのが実際のところだ。  女は彰の話を聞きながら、相槌を打ったり、言葉に同意したり、励ましたりしていた。  だが、彰の耳には女の声が妙に遠くから響いてくるかのように感じられていたのだが、アルコールも手伝ってか、話に夢中になっている彰が気に留めることはなかった。   「そうだ! 彰さん、もっとゆっくりと話せる場所に行きましょう? まだまだ時間はあるのだし」 「あ、ああ、そう、だね」  彰はいつしか霞の掛かったような意識の中で、頷き、立ち上がった。 (あれ? 俺、名乗ったっけ?)  頭の片隅にそんな疑問が一瞬過ぎったが、その事を深く考えることはなかった。  そして、もうひとつ。    女が席に着いてしばらく経つのにも関わらず、バーテンダーが一度も注文を聞きに来ていないことに、彰が気づくことはなかった。  1人でブツブツと話している彰を奇異な目で他の客が見ていたことも。
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