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8
インターフォンが鳴り、紅林啓は引っ越すことを決めた。彼が訪ねてくるかもしれないと、淡い期待を抱いてこの部屋に住み続けてきたが、彼は来ないし、この部屋を知る人間は増えすぎた。簡単に部屋に上げてしまう自分のせいではあるが、一度のセックスで恋人面をされてはたまらない。追い払ったら、速攻不動産屋へ行こう。啓はそう腹に決め、なるべく不機嫌な表情を作って、玄関扉を開けた。
「あ……」
一瞬で思考が止まった。
「紅林……啓さんですか?」
彼はやけに他人行儀に、知らないはずがないのに、まるで初対面みたいな緊張感を顔中に湛え、言った。
「愛司……くん?」
何年ぶりだろう。口をついた名前に不安を覚える。目の前にいるのは室井愛司。かつて犯罪的な関係を持ってしまった少年は、壮年期を迎え、警戒するように自分を見据えている。その瞳に、昔のような熱はない。
「俺……」
彼の左手薬指に光るものを見つけた。結婚指輪だ。
「久しぶりに会えて嬉しいよ。まぁ入って」
愚かな自分に笑えてきた。彼のことなど眼中になかった。けれど引っ越さなかったのは、彼の来訪を期待していたからに他ならない。下心ではない。もしかしたらまた酷い目に遭うかもしれないと思ったから。そうしたら自分を頼ってくると思ったから。でも今になって自信がない。それは8年の理由になるのか。本当は彼が成人した後で、ふらりと訪ねてくることを期待していたんじゃないか。でなければ、薬指にはめられた指輪にショックを受ける理由がない。少なくとも、扉を開けた瞬間、自分の胸は柄にもなく高鳴ったのだ。
「……失礼します」
「ははっ、やけにかしこまってるね」
距離を取られている。もしかしたら口止めに来たのかもしれない。彼にとって自分は、恥ずかしい過去を知る邪魔者……ということだろうか。
「安心して。俺、口は硬い方だから」言いながらキッチンへ向かった。「適当に座って」
「あの……口は硬いって……どういうことですか」
愛司はどこにも掛けることなく、啓を視線で追いながら言った。
「あのことを口止めに来たんだろう」
「……あのことって、なんですか」
ドリップコーヒーを淹れながら、啓は苦笑した。
「とぼける理由がわからない」
「まさか……あんたがやったのかっ」
「は?」
手を止め、彼を見た。彼は顔を赤くし、ズケズケとアイランドキッチンの中まで入ると、啓に詰め寄り、胸ぐらを掴んだ。啓は慌ててポットを置いた。
「あの少年に乱暴したのはっ、あんたなのかっ! 俺にもっ……同じことをしたのか!」
「何を……言ってるんだ」
「乱暴された少年を診察した医師が……俺も昔、同じ目に遭ったって……あんたに付き添われて来たって!」
「落ち着いてくれ。何の話だ」
自分から詰め寄ったくせに、彼はパニック寸前みたいに息を荒げ、そして弾かれるように啓から離れ、背を向けた。ガシガシと頭を乱暴に掻く。
「愛司くん?」
「あんたは高校生の俺に何をしたっ!」
突然の怒声に、ギョッとした。まさか覚えていないのか? 上下する肩に問いかける。
「覚えてない…………悪いかっ」
彼は肩越しにこちらを睨み、「それとも嬉しいか」
啓は言葉が続かなかった。今の彼はあまりにも、自分の知る彼と違う。
「だが新たな被害者が出ている以上、俺の記憶云々は関係ない。あんたは逮捕されるんだっ……」
「愛司くん、俺にわかるよう」
「俺を気安く呼ぶんじゃねぇっ!」
思わず背筋が伸びた。まるで別人じゃないか。
彼はこれ以上ここにいられないとでもいう風に、足早に玄関へ向かった。啓はますますわけが分からない。
「ちょっと!」
「触るなっ!」
はっきりとした物言いと、先ほどの言葉で、彼が警察官になったと分かる。そういう近況報告でも良いのだ。歳も離れているから、別に恋愛対象として見るつもりはない。ただ、彼の成長を喜ぶくらいはしたかった。口止めしたくなるほどの環境、つまり責任を背負っている彼に安堵したかった。結局、自分は彼のことが心配だったのだ。やはり下心ではなく、純粋に。
「待てよ」
低い声が出た。振り払えないほどの力で、彼の腕を掴む。彼の進路を奪うように壁に手を付き見下ろす。それだけで彼の威勢はすんなり萎み、掴んだ腕が震え出した。虚勢を張っていただけらしい。
「覚えていないって言ったね?」
彼は目を合わせようとしない。玄関扉に視線を向けている。幼さのあった頬の曲線がスッと大人びている。彼の妻はどんな女だろう。ベッドの上でオスになる愛司の姿が、啓は想像できない。解放を待つ彼の横顔を見ていたら、からかいたくなった。
「俺に抱かれたことも忘れたの?」
「……っ!」
愛司の瞳が困惑に震え、けれど視線を合わせようとはしない。目の下の皮膚が引き攣るのを見ていたら、無性に抱きたくなった。そうだ。彼はプライドが高いのだ。それはおそらく、変わっていない。
「さっき、被害者って言ったよね。ちゃんと教えてよ。確かに俺は高校生のキミを抱いた犯罪者だけど、そのことを言ってるわけじゃないよね?」
彼の顔からさぁっと血の気がひいた。思わず頬に手が伸びる。ビクッと震えたものの、拒絶の手はない。今すぐ彼を寝室へ連れ込んで、めちゃくちゃに抱き潰したい……
「無理矢理……したのか」
啓は眉根を寄せた。彼は……愛司は、本当に何も覚えていないらしい。
「そんなわけないじゃないか」
彼の頬から手を離し、啓は引き下がった。
「同意なわけがあるかっ! 無理矢理に決まってる! そしてお前はカミソリをっ……お、俺の尻に突き刺したっ……」
首を振って否定した。順調とは言えない、彼の人生を思うと切ない。昂ったものがスルスルと萎んでいく。代わりに、ちょっとした気持ちでからかったことへの罪悪感が湧き上がる。
「新たな被害者は、犯人について何も言ってないの?」
「……口を閉ざしてる」
「そう……」
「本当に……あんたじゃないのか」
「馬鹿なことを言わないでくれ。無理矢理は趣味じゃない。あんな非道なことができるのはよっぽどのマニアだ。キミは目隠しされていて、犯人の顔を見ていなかった。だからキミに乱暴した犯人は分からない。今回の被害者ももしかしたら……」
その時着信音が鳴った。愛司スマホからで、啓は「出なよ」と促した。愛司はバツが悪そうな表情で、小さく頭を下げ、通話に出た。みるみるうちに彼の顔は強張り、そして驚きに変わった。通話を終えると彼は、「重要参考人が上がった」と言った。
「警察官になったんだね」
「あ……まぁ」
歯切れが悪いのは、犯人だと決めつけたせいだろう。「じゃあ、帰ります」とボソッと言って、彼は靴を履いた。
「またおいで」
誰が、とでも言いたげな目で睨まれ、啓は肩をすくめた。
「下心はないよ。久しぶりに色々話したいと思っただけ」
愛司は何も言わず、「失礼しました」とも「はい」とも取れるように頷いて、出ていった。
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