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③なすとかぼちゃ
先生に呼ばれて、隣町の唄の先生に着物を届けなくてはいけなくなった。先生がどうしても都合が悪いから僕にそれを届けろって。
学校以外に外に出るのは久しぶりだった。
「あら、わざわざ。」
そう言って迎えてくれたのは年配のご婦人で、髪を綺麗に結えていた。薄紫色の着物を上品に着ていて、先生の奥さんとはどこか違う柔らかさを見せていた。
「上がって。」
言われたままに玄関からお座敷に上がると、三味線の音がする。これから稽古だろうか。
「ちょっと休んでいって。」
ご婦人がそういうと、女の人が麦茶とメロンを出してくれた。僕は、その人を見て、あっと言いそうになったが、僕の視線を遮るように間に入ったご婦人がその人にすぐさま下がるように言ってしまった。
「聡美ちゃんと真希ちゃんは元気?」
そう聞くのだから、唄や踊りの先生の世間は狭いのだろう。
「はい。」
「内緒よ。あの子たち、メロンには目がないから。島田さんから、子どもに着物を届けさせるって聞いて、2人のうちのどちらかがくると思ったの。まさか、あなたのような男の子が来るなんて思ってなかったのよ。メロン…好きかしら?」
「はい。…好きです。」
本当は世の中で1番、嫌いだ。
「良かったわ。ちょうど食べ頃よ。どうぞ。」
「ありがとうございます。」
最後にお母さんと別れた日に食べたのもメロンだから。
フォークを果肉に刺して一口大に切られたメロンを口に運んだ。
「…甘い。」
「美味しいかしら?」
「美味しくて、おどろきました。」
「そう。良かったわ。」
ご婦人は、にこやかに僕が食べ終わるのをずっとみている。
「先生に、伝言いいかしら。」
「はい。」
「今度、きちんとご挨拶に伺いますって。」
「…はい。」
「ねえ、食べ終わらないでほしいのだけど。」
「…まだ、一切れ残っています。」
「そうね。」
冷たいお茶をゆっくりと飲む。
「高江は、必ずあなたを迎えに行くわ。」
どこにいるかわからないお母さんの名前を久しぶりに聞いた。
「待っているのよ。これ、先生にお礼のお手紙。渡してね。」
封筒を受け取って、玄関から外に出る。
三味線の音がする。なすとかぼちゃだ。ちょうど聡美さんと真希さんが練習している踊りの端唄。あの女の人が弾いているんだろうか。
お母さんも三味線を弾いていた。芸者というものだったのだろうか。全くわからない。
夕日の沈むころ、僕のスニーカーはアスファルトを擦っていた。
帰りたくないようで逃げたいようで。
待っているのよ。
そう言われた言葉がなんとなく僕の足を重くする。
太鼓のバチを持つために僕の手はあるんだろうか。本当は別なものを持つための手ではないんだろうか。
お母さんと繋いでいたはずの僕の手は、その感覚を思い出すことはない。
[了]
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