欲望という名のゲーム

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           4 「わ、私が… 負けた…?」 鹿島はその封筒を持ったまま、ふらふらと後ろに下がって行った。 そしてソファーに座り込んだ。 その目はすでに焦点を失い、ただぼんやりと床を見ていた。 孝子はじっと待っていた。 待つ事だけが、彼女に出来る精一杯の優しさだったからだ。 「封筒をとっさに鎧に隠したというのは、嘘だったんですね…」 鹿島は床に目を伏せ、孝子に言うともなく、自分に言うともなく、つぶやいた。 孝子が小さく頷いた。 「もう、この屋敷にはないんですね…」 その鹿島の様子を、孝子は哀しい目をして見ていた。 「カラの封筒だけを持って、ここに戻って来たのよ。 一番大事なのは、キングの逃げ道を確保しておく事。 だって、キングを取られたら、ゲームに負けちゃうから」 孝子の声に勝ち誇ったものはなかった。 鹿島を責めるものもなかった。 ただ、敗者に対するいたわりの思いだけで一杯だった。 長い沈黙があった。 鹿島が静かに口を開いた。 「そうですか… 私は、負けましたか…」 目を伏せ、力なくそう言った鹿島の全身から、何かがゆっくりと抜けていくのが分かった。 鹿島に取り憑いていた恐ろしく危険な何かが、ゆっくりとその体から抜けていった。 鹿島の心を支配し、鹿島の理性を失わせ、鹿島を狂わせたニ百八十億円という魔物が、今その肉体から放出され、そして空中へと霧散していった。 それが孝子にもはっきりと分かった。 鹿島の瞳から危険な光が消えてゆく。 彼の全身から発散されていたおぞましい感情が、やがて跡形もなく消失した。 そしてそこに残ったのは、一人の物静かな男であった。 孝子は鹿島に近付き、そして彼の隣に座った。 「私ね、ここで暮らしてみようと思うの。 そうすれば、雅則兄さんの事が、もっとよく分かるんじゃないかって、そう思うの。 私はこの屋敷がとっても好きなの。 だから貴方に壊してほしくなかったの」 鹿島が少しだけ笑った。 自分を笑ったのだ。 「私は何かを失っていたのですね。 大事な何かを…」 「鹿島さんは少しのあいだ忘れていたのよ。 本当の自分を… それだけよ。 …でも、今は戻ったわ」 孝子が嬉しそうに言った。 「私とビトゥイン・チェスをした、あの時の鹿島さんに戻った」 そう言って、嬉しそうに笑った彼女の瞳から涙が落ちた。 「雅則様の考えられたこの奇妙なゲームは、やはり意味があったのかもしれませんね。 本当に遺産を相続すべき、ただ一人の人間を見事に選びました」 孝子が手の甲で目頭を拭きながら立ち上がった。 「さぁ、行きましょう、鹿島さん」 「どこへ行かれるのですか?」 「牧野さんやパブロの所よ。 牧野さん達は、またこの屋敷に戻ってきてくれるかしら?」 「きっと喜んで帰ってきてくれると思いますよ」 そう言って、鹿島も立ち上がった。 二人は並んでホールを歩いた。 「牧野さん達が戻ってこられたら、もう私に用はないのですね」 「あら、それは困るわよ、鹿島さん。 この屋敷や遺産を維持していくのは、私一人じゃ出来ないわ。 貴方が必要よ」 「そうですか… こんな私でも、必要ですか…」 「それにね。 鹿島さんがいなくなると、ビトゥイン・チェスの相手がいなくなっちゃうもん。 なにしろ、世界選手権ですからね」 鹿島が笑った。 屈託のない、明るい笑いだった。 二人はホールを抜け、表に出た。 透明な夜の空気が静かに流れている。 空は満天の星だった。 花畑に囲まれた車寄せの道を、二人は鹿島の車まで歩いた。 鹿島は考えていた。 なぜ孝子がここに戻ったのかを考えていた。 彼女がここに戻ったのは、遺産の権利書のためではない。 彼女はすでにそれを手に入れている。 そもそも彼女はここに戻る必要がない。 だが彼女はわざわざこの屋敷に戻ってきた。 彼女が戻ってきた理由、それは牧野さんやパブロのため、私の手からこの屋敷を救うため、そしてこの私を救うためだ。 そのために、彼女はこの屋敷まで延々と続く山道を、歩いて戻って来たのだ。 「一度この屋敷でパーティーをしたいな。 友達を呼んで」 「パーティーですか。 それは楽しそうですね。 どんなパーティーをなさいます?」 「そうね。 友達は女の子ばかりだから… アイスクリーム・パーティーっていうのはどうかしら?」 「そういうパーティーがあるとは、初めて聞きました」 そう言って、また鹿島が笑った。 彼は孝子と歩きながら、自分自身に誓っていた。 兄弟達と別れ、たったひとりぼっちになってしまった、この小柄で誰よりも聡明な女性を、これからは自分が守らなければいけないという事を。 そのために、自分は今存在するのだと。 ナイトがクイーンを守るように。 それが自分に出来る、ただひとつの恩返し。 それが自分に出来る、ただひとつの謝罪だと… 車の前で、孝子が星空を見上げて言った。 「『暁が金のクルミを銀のカゴに集め、黄昏が薄暗い屋根裏に放り投げる』 ハンガリーではね、夜空に広がる星の事を、こんなふうに表現するんですって」 そう言って、彼女は星空を見上げながら続けた。 「そしてモロッコでは、こんな美しい星空をこう言うんですって。 『金貨で一杯の私のカゴ』」   【Game set】               MADE IN SAO 1983
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