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土曜日。
これから住む家に最後の荷物を運び入れた。これで引っ越し完了だ。電気もガスも水道も今日から使える。流しの下に鍋をしまった。鍋は結の持ち物だ。
「結、前の職場の最後の仕事なんだった?」
「え、いつも通り。蒟蒻とかさつま揚げとか卵とか大根とかの検品。」
「…おでん作れそう。」
「あ、今日おでんにする?寒いし。」
引っ越し初日におでん。なんか、あったかい感じがしてステキなメニューだと思う。
「良いね。夕方買い物行って…。」
「糸は最後の仕事なんだったの?」
僕は一瞬躊躇ったけど、結になら別に隠さなくても良いかなって思って
「…ヌキヌキJAPAN。」
最後にホームページのビジュアルデザインを作ったお店の名前を言った。
「は?。」
スマホでホームページを出して見せた。TOPページはどぎついピンクの背景で、いかにもな写真を配置した画像。
「これ。」
「うわー、卑猥で下品。」
「これに中年の男は食いつくのよ。」
「へー。恥ずかしくねーのか。中年男性は。」
「TOPページをこれにしてから電話が鳴り止まないんだって。会社の営業さんが褒められたって喜んでたよ。」
「へえ。職人だね、糸さん。」
「ありがとう。」
もう、こんなクズみたいなデザインの仕事をしなくて良いと思うと清々しい気分になる。
「てか、こんなんばっか作ってたの?」
「たまにだよ。」
「よく耐えたな。偉い。」
「耐えた。欲に忠実な人間に餌を撒いて賃金を得る業界があるから印刷屋もそこに手を伸ばして少しでも儲けたいんだ。性ビジネスたるものがいかに有害か世の大人たちは議論すべきだよ。僕も末端でその一助を担っていたのだから情けない話だね。」
「は?何キャラだよ、それ。」
「文学的に言ってみた。」
「つまんねーから。」
「…冷たいね。」
欲しい人がいるから与える、需要と供給だから今までの仕事も何も恥ずかしいことはない。
ただ、性行為に嫌悪感のある僕が、性ビジネスの末端の仕事も真面目にやっていたなんてあまりにもおかしな話。
「ま、どんな仕事であれ真面目にやったんだろ?糸って、そんなやつ。」
「わかってんね、さすが。」
「ふふ。あ今度俺も使おうかな。」
「引くわあ。結って下品な。」
「嘘に決まってんじゃん。」
「嘘に聞こえん。」
スマホをポケットにしまう。
部屋を見ると片付けは全部終わっている。もう何もいじらなくて良い。
「なんか、暇になったな。もっと時間かかる予定だったんだけど。」
「そうだね。」
「散歩行って、その足でおでんの材料買いに行くか?」
「うん。」
うちの前が、12月から働く映画館。市の文化遺産。で、その周りは商店街。道路はアスファルトだけどこの令和の時代に昭和がそのまま生き残っているような街並み。富田商店、和菓子のサカイ、中山酒店、惣菜とお肉の宮本、魚の藤崎、田中パン店、古山新聞店、寿司割烹せん、ドラッグストアもある。自転車を借りて好きな場所で返せるレンタルサイクルもある。
「住みやすさランキング上位だろうな、知らんけど。」
「商店街が、ちゃんとあるなんてすごいね。」
「な。」
「今まで、俺たち映画しか見てなかったな。」
「ほんとだね。駅着いたらすぐ映画館行ってた。」
「馴染めるなかなあ、俺たち。」
「僕、お肉屋さんでお肉買ったことないから緊張するかも。」
「じゃ、今日買ってく?おでんやめて、すき焼きにしようか。」
「いや、すき焼きは贅沢だよ。おでんにしよう。」
僕は少し慌てた。本当にオーダーするのが苦手だ。量り売りはどのくらい買えば余らず食べ切れるか、少なすぎず満足できるかがわからないからあたふたする。
「新しいって、楽しいな。子どもに戻った気分だわ。」
結が、そう言って何かに吸い寄せられるようにお肉屋さんに近づいて行った。
「結?」
結は、お店の中を見ながら
「糸、コロッケ食べない?」
「え」
僕の方を見て、にいって笑って
「良いこと教えてやる」
「何?」
僕もお肉屋さんの前に行ってみた。結が、お店の中のショーケースを指差した。
「糸の好きなカボチャコロッケあるぜ。」
「はは。好きなんて言ったことないけど。」
まあ、カボチャコロッケは嫌いじゃない。
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