リスタート~上を向いて

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「SGさん、お願いします」  若いスタイリストに促された。よかった。この客のシャンプーをさせてもらえる。私はこの美容室で「SGさん」というニックネームで呼ばれていた。 「シュンスケじいさん」の略だ。  客から見て、この美容室で働く私は浮いていることだろう。  それはそうだ。  若くてオシャレな人たちが働くこの美容室で、一人だけ定年後の私がフロアにいて、若いスタイリストのアシスタントをしているのだから。  指示されたとおり、私はカットする前の若い男性客をシャンプーで洗う。  泡立てて、丁寧に頭皮をマッサージしながら、密かにこの客の顔つきや肌、体型の変化など様子を眺めた。    前回の時より、首筋の肌荒れが改善されているし、やせ細っていた体型も多少、肉がついている。  よかった。ちゃんと食事は摂っているようだ。  シンタ……立派な大人になったものだ。  こうやって2か月に1回程度、客としてやってくる息子のお前に会えるのを心の支えにして、今の私は生きている。  シンタは、シャンプーをしているこの私が父親であるとは知るはずもない。  ひょっとしたら父親の記憶もないのではないか?  20年前、愚かな私は浮気が原因で離婚となった。  一人息子のシンタは、当時5歳。  元妻は、別居後に私がシンタに会うことを拒絶した。そして気が付いたら元妻は勝手にどこかに引っ越して音信不通となり、私とシンタをつなぐものは、養育費の振込先だけとなった。  会えなくなってからも、私は片時もシンタのことを忘れたことがない。  一緒にいた時は、「お父さん、いっしょに寝よう」「お父さん、だっこして」「お父さん、髪を乾かして」などといろいろせがまれたものだ。  あの頃は幸せだったのに、……私はバカだ。  あのかわいいシンタの笑顔を思い出して、これまで何度、泣いたことだろう。  仕事ばかりにのめり込んでいた私が定年となり、自由な時間が増えた頃、SNSで話題になっていたシンガーソングライターのシンタのことを知った。  ネット上で流れるその容姿を一目見てピンときたし、アーティスト名がそのままシンタだったので確信した。  三重県いなべ市にある三岐鉄道北勢線の阿下喜駅で毎週末の夜に路上ライブをしていることを知り、何度、足を運んことだろう。  路上ライブに通い詰めるうちに、シンタがこの市内で母と暮らしていて、阿下喜駅前の商店街にある美容室に通っている情報もつかんだ。  独り身で自由な時間を持て余していた自分に、もはや迷いなどない。  すぐに、この街のアパートに引っ越し、シンタの通う美容室で働かせてもらえるように店長に頭を下げた。 「美容室勤務は未経験? じゃあ、アシスタントの仕事しかできませんよ。いいお年のあなたが、こんな若いスタイリストたちの部下になるなんて耐えられるんですか?」  店長は当時、心配そうに私に言った。  しかし、私も諦めたくない。シンタに会えるチャンスを、もう二度と失いたくなかった。 「もちろんです。ちゃんと言うことを聞きますし、雑用もします」  私にはもう、守るべきプライドなどない。  すると、店長は渋々採用してくれた。若い人たちと仕事をするのは悪くない。ニックネームで「SGさん」と呼ばれるのもいいものだ。  シンタがここにやってくる度に、私がシャンプーとブローするようになって1年が過ぎた。  シンタの髪を洗っていると、赤ん坊の時にベビーバスで沐浴をした記憶と重なる。  昔は片腕で持ち上げられるほど、小さくて軽かったものだ。  最初はシンタを前にすると緊張したものだが、今は、手短に会話もできるようになった。  髪をすすいでタオルで拭きながら、私はなるべく平生を装って声をかける。 「シンタさんの新曲はいつ公開するんですか? 楽しみにしているんです」 「ありがとうございます。次のSNSの公開の目途が立っていなくて……」 「そうですか? 何か問題があるんですか?」 「いえ、実は、今、レコーディングをしているんです。初めてCDをリリースするので。だから権利の問題があって簡単に公開ができないんです、すいません」 「CDデビュー! ……ひょっとしてメジャーレーベルと、ですか?」 「……はい」 「おめでとうございます! 私、絶対に買いますね。いつリリースするか、ちゃんとホームページでチェックしておきます」  シンタは恥ずかしそうに俯く。  アーティストなので髪も赤く染め、見た目は派手だが、とても謙虚で優しい。いい大人になったものだ。  それに何より、シンタには才能がある。  詞は文学的で、多くの人の心をつかみ、メロディもハスキーな声も個性的で、今の流行りのアーティストとは一線を画している。  髪をブローしながら鏡に映るシンタの顔は、いつまでも子どもの頃のあどけなさが残っていた。  離婚する直前まで、風呂上りにはこうやって私が髪を乾かしていたものだ。  あの頃には、もう戻れないが、こうやって少しずつシンタと思い出をつくれるだけ幸せだ。  私がついているスタイリストは、シャンプー1回洗い、いわゆるワンシャンをカット前後に2回に分けるやり方をする。  だから、私はシンタにもう一度シャンプーをさせてもらえる。その間、レジをしたり、フロアーの清掃をしたりしながらも、シンタのことが気になってソワソワしてしまった。  そして二回目のシャンプーとブローのタイミングでふと、シンタの方から私に話しかけてきた。 「お名前は、SGさんでしたっけ?」 「はい、ここの皆さんにそう呼んでもらっています」 「SGさんのお子さんは、ボクくらいの年ですか?」  私は、心臓が止まりそうになるほど、驚く質問だった。 「どうでしょうか。ええ、そうですねぇ。私は65歳なので、お客さんよりはもう少し年上かもしれませんね」  私は結婚が遅く、シンタが産まれた時、40歳になっていた。だから、このような言い方をしても大きな矛盾はないだろう。 「どうして、ボクみたいな年の離れたシンガーを応援してくれるんですか?」 「それは、あなたの表現力がすごいからです。あなたの音楽は多くの人を幸せにします」 「でも、自分の息子が、ボクみたいに安定した仕事をしていなかったら嫌ですよね?」 「まさか! お客さんみたいな息子がいたら、誇らしいし、私だったら、嬉しくて嬉しくて仕方がないですよ!」 「……そうですか。ボクの母は、こんな髪を染めたりピアスしたり、ビジュアルが一般的じゃないから、嫌がります。それにCDデビューも母は反対で、普通に就職して仕事しろって、顔を見るたびに言われます。ボクはどうも普通のことができなくて。そもそも普通が何かも分からないから……」 「お客さんは、そのままでいいんです。人生はたった一度きりなんですから、CD出さないと後悔すると思います。人と違っていていいんです。あなたはあなたらしく生きてさえいれば、それだけで親は嬉しいものなんです!」  つい、私は店内に響き渡る大声でシンタを励ましていた。 「SGさん、声が大きいっすよ」とスタイリストに耳打ちされ、まわりに「すいません」と頭を下げる。シンタは優しく笑った。 「ありがとうございます。気持ちが楽になりました。ボクは元々小心者で、本当は堂々と人前に立つ度胸なんてないけど、ここでバシッと髪型が決まると、何か、強くなれるんですよ。明日はデビューCDのジャケット撮影だから、どうしてもここでキメておきたくて……」 「大丈夫です。絶対、うまくいきます。日本中があなたの曲が出るのを待っていますよ」  そして瞬く間に、シンタのセットは終わり、会計を終えて店を出ていった。  私は毎回のことだが、シンタのセットが終わるたびに休憩室で泣いてしまう。  シンタに対する態度の違いから、もう店長や周りのスタッフは、おそらく薄々感づいている。しかし、誰もそのことに触れず、そっとしておいてくれる優しさがあった。  無事にメジャーレーベルからCDデビューしたシンタは、CDセールスや楽曲ダウンロード、サブスクなどのトータルヒットチャートでいきなり5位に入る快挙を成し遂げた  この美容院やコンビニ、ガソリンスタンド、テレビ、ラジオなど行く先々でシンタの楽曲を耳にするようになり、私まで生きているのが嬉しくなる。  波に乗ったシンタは東京に単身で転居し、うちの美容室へ来られなくなったから、私は関東で開かれるシンタのライブに何度も通った。  今はこの美容室に来てもらえないが、きっといつかまたここで会える。  それよりもシンタが自分らしく活躍してくれていれば、それでよかった。  会えなくなって 一年が経とうとした頃だろうか。予約なしでシンタがやってきた。  私は再会できて嬉しかったが、どうも様子がおかしい。  明らかに痩せて、疲れた顔をしている。仕事がうまくいってないのだろうか。  そんなはずはない。先日もニューシングルをデジタルでリリースしたばかりだ。一体、どうしたのだろうか?  ようやくシャンプーのタイミングがやってきた。シンタは、ため息ばかりついている。 「お久しぶりですね。お疲れですか?」 「今日は、髪を黒く染めて、バッサリと切って真面目な髪型にしようかと思って」 「ビジュアルの路線変更ですか?」 「いえ。もう、プロのミュージシャンをやめるんです」 「急にどうしたんです? 先日ニューシングル出したばかりじゃないですか?」 「ボクの所属するレコード会社は経営状況がよくなくて、よその会社に吸収合併されてることになりました。所属するアーティストのうち、売れる見込みのある少数の人だけが契約を更新されたけど、ボクは外れました」 「そんなバカな! あれだけいろんなメディアで流れているじゃないですか!」 「デビュー曲だけ売れましたが、その次からは全然です。事務所のおかげでタイアップがついたり、ラジオなどでかけてもらっているから、まるで今も売れているかのように思えますが、実際は少ししか売れていません。だから見切りをつけられました」 「そんなの許せません。私がファンの代表として文句を言います」 「気持ちは嬉しいですけど、もういいんです。……ボクは負けたんです。週刊ヒットチャートで5位以内に入っても、トータルでみたらCDセールスなんて1万枚にも足りないのが実情です。そこそこダウンロードされても1曲の単価は安いものですしね。悲しいけれど、一般の会社員の方がよっぽど稼いでいます。友人のサッカー選手もプロチームのレギュラーなのに会社員に収入で負けています。夢や憧れを仕事にしても、今の時代はなかなか成立しないのがよく分かりました」 「いいんですか? もう、諦めても」 「はい、母に苦労をかけたので、来月から地元の自動車工場でちゃんと就職して働くことにしました。それに……」 「それに、……どうしたんです?」 「働きながらでも、音楽はできます。大手で音楽をするのは窮屈です。昔みたいに伸び伸びと音楽を楽しみたい。SGさん、今まで応援してくれたのに、すいません」  シンタは涙を流す。  強がってはいるが、よほど悔しかったのだろう。翼をもがれ、心の痛みを一人で抱え込んでいたことを思うと、かわいそうで仕方がない。  こんな追い詰められる前に、私にできることはなかったのだろうか。大切なシンタを救ってやれなかった自分が悔やまれる。  すまない、シンタ。役に立たない父親ですまない。 「いいんですよ。自分らしく生きてさえくださるのならそれで。私は、いつもシンタさんを応援します」と私は、本心とは裏腹に明るい表情で言う。 「ありがとうございます。……なんだか、SGさんてボクの父さんみたいですね」  シンタは涙を流しながら、私を見据えてきた。 「ホントですね。つい、父親みたいな気持ちになってしまって」と、私はいつものようにごまかして答える。  しかし、シンタは笑うこともなく、私を見据えたまま微動だにしない。 「もう、つらいよ。気付かないフリをずっと続けるのは!」とシンタは厳しい口調で言う。 「まさか、私が誰なのか知って……?」と動揺しながら言うと、シンタは頷いた。 「父さん、……だろ?」  この言葉を聞いて、私は人目をはばからずに泣いてしまった。  シンタが私を「SGさん」でも「店員さん」でもなく「父さん」と呼んでくれるなど、夢のようだ。 「そうだ。シンタ、ごめんな。ごめんな。ずっとつらい想いさせたな」 「そんなのは、もういいよ」 「いつから?」 「かなり最初の頃。正直に言うと、もう会えないような気がして、ボクも気付かないフリしてた」 「そうか」 「ホントは東京で成功させてから、このことを正直に話そうと思っていたけど、ダメだった。でも、人生を再出発しようとする今なら、もう解禁してもいいかな、って」 「じゃあ、私も解禁しようか」と、上を向いて私は笑う。もう下を向いてばかりいる人生に疲れてきた。  そうだ、シンタの社会人としての人生と、私の定年後のステージは、どちらもまだ始まったばかり。  この先、もっと苦しいことや、嬉しいことを積み重ねて、一緒に成熟していける。  今は、その最初のステージが終わっただけなのだ。 「父さんは、ずっと影からボクのことを応援してくれてたんだろ? CD買ってくれたり、ライブに来てくれたりさ」 「……まあ、父親ってのは、そういうもんだよ。何歳になろうが、ずっと息子が成長するのを見ていたんだ。ずっとな」  人生は、いつだってやり直しができる。  ここから、もう一度「父さん」になっていこう。  シンタさえいれば、私は強くなれる。  シンタは、私の人生のすべてなのだ。(了)
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