忘れたことさえ忘れたい

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忘れたことさえ忘れたい

 出先での出来事。  とある大規模物流倉庫に出入りする仕事があった。  その日の作業は深夜からだった。  私は、少し早かったが現場を下見をしようと夕方ごろにその現場へ着いた。  下見の前に私は、忘れ物がないか最終確認をした。万が一何か忘れていても、事務所が近くにあるので直ぐにでも取りに帰ることもできる。  作業確認書、作業計画書、保全資料などはファイリングし鞄に入っている。他には安全ヘルメット、つま先に鉄芯が入った安全靴、夜間作業時に欠かせない反射ベスト、ヘッドライト。どれも忘れてはいない。  ほっと一息つきたいところだが、まだ明るいうちに下見を済ませたかった私は、飲みかけの缶コーヒーを飲み干し現場へ向かった。  現場は、事前にマーカーやカラーテープで印がされており一目で作業箇所が分かるようになっている。  私は、作業確認書と照らし合わせて漏れや間違いがないかチェックした。一箇所だけ、カラーテープが剥がれていた為、いつも作業着に忍ばせているマーカーで代用しようと懐に手を入れるが、マーカーがない。そう言えば昨日洗濯に回して、今着ているものは新しい上着だった。忘れ物をやってしまった。あとで剥がれた箇所を忘れないようにしなければ。  それから一通り下見を終えた私は、何か腹に入れておこうと、売店で軽めの夕食を買った。レジのおばさんがやけに親切で、電子レンジや給茶機の場所まで丁寧に教えてくれた。  私はイーティングスペースへ行き、買った弁当の蓋を開ける時に気づいたのだが、箸がない。そういえばレジ横にセルフで取る方式だった。仕方なくレジへ戻ることに。すると、レジのおばさんが駆け寄ってきて、苦笑いしながら私に謝るのだ。  何事かと思えば、わざわざ箸を届けてくれたのだった。箸を取り忘れたのは私だ。謝るのはむしろこちらだと、私は深く一礼し、おばさんの心のこもった箸を有難く頂戴した。  腹を満たした私は、眠気を催し仮眠をとることにした。  目が覚めると既に日は落ち辺りは真っ暗になっていた。慌てて時間を確認するが、目を閉じてから一時間が経っただけで仕事までまだ時間がある。  寝覚めに、渇いた喉を潤そうと私は再び売店へ向かった。  暖かいペットボトルの紅茶を飲もうとレジ横のケースから一本取り出し、レジ前に立った。しかし誰も出てこない。さっきの優しいおばさんもいない。ふとカウンターに置いた紅茶に目をやると理由がわかった。この時間はどうやら無人の時間帯のようだ。会計はセルフレジでと案内があった。  恥ずかしながら、私はセルフレジをしたことがなかった。急に不安になった。が、他にお客はいない。例え操作に手こずっても妙なプレッシャーを受ける事はない。そう思い、私は人生初のセルフレジをすることにした。  今思えば、そんな好奇心さえなければ、こんな事にはならなかったのではと、かなり後悔している。それはこう言う事だ。    レジカウンターの端にあるセルフレジへ、160円のペットボトルの紅茶を持って行った後、私は年甲斐もなくドキドキしながら説明書き通りに会計を進めていった。  支払い方法は電子マネーでと思いきや、残高不足。余儀なく現金払いを選択する。次にバーコードの読み込み。上手く読み込めた瞬間は、何だか嬉しかったのを覚えている。そして現金投入。財布に小銭がなく、千円札を投入。案外簡単で拍子抜けしてしまった。こんな事なら、もっと早くセルフレジを使っていればと思うくらいだった。最後に精算ボタンを押し、釣り銭をとって終了。  こんなものかと、余裕ぶっこいてすまし顔で売店を後にし、仕事前のひと時を優雅に過ごす———はずだった。  なのに、出てこない。釣り銭が。  千円札を投入し精算ボタンを押しても釣り銭が出てこない。少し待ったが出てこない。  ざわつく気持ちを落ち着かせ、「店員を呼ぶ」ボタンを押す。なのに、店員が来ない。そうだった、店員はもういない時間だった。  終わった。  と思った時、視界の端に「セルフレジエラーの際はこちらへ連絡を」の張り紙が見えた。  助かった。  と思ったら、対応に数日かかるとの事。そんなに待てないし、仕事が終わればここにはもう来ない。近いけど。多分。  釣り銭を 忘るるなかれ セルフレジ。  だって、お釣りの840円、お小遣い制のサラリーマンには多額だけど、その額で後日ここに取りに来るのも何だか恥ずかしいし。あのおばさんにまた気を使わせるのも迷惑だし。そういえば今また思い出したけど、弁当買った時のお釣りも貰うの忘れてた。おばさんがいっぱい話すもんだから焦って忘れてた。ああ、160円か。いや、それは優しいおばさんへのチップ代わりとしておこう。  私は、再び終わった。    このやりきれない気持ちを私は一人では抱えきれなくなって、妻に電話した。なんせ、このままでは仕事に集中出来ないかもしれないからだ。  しかし、それがさらなる失意のどん底に私を追いやった。    電話口で妻のがなる声。  洗濯物がどうとか言っている。  あぁ、作業着のマーカー。取るの忘れてた。   (了)
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