第33話 ほっとけない

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 宿の裏口を出て右手は、今朝私が使った釜戸とお風呂がある。  お風呂の向こうはすぐに、隣接する宿屋の裏庭だ。それとは反対の左側の壁沿いに行くと、庭の端に、木を組んで作られた小さな井戸があった。  奥さんと少年の後ろについて行くと、井戸の前には、大量のベッドリネンが積み上げられていた。 「ふう、ふう……。少し休ませてもらってもいいかしら?」 「もちろん」 奥さんは少年に声をかけると、少年の手を借りながら、井戸のすぐそばにあるすべすべとした石に腰掛けた。  石は上から見ると卵のような形をしており、ちょうど私の太ももあたりの高さで上側が平たくなっているので、腰をかけて休むのにもってこいだ。  見ると、石の横には木で作られたタライと板、洗濯物を干すのにつかうのであろう紐などが置いてある。  井戸の向こうは、また別の宿の裏庭のようだったが、裏庭の境界線を引くかのように溝ができていた。排水をながすのだろう。よくできている。  井戸から見て建物の反対側には、等間隔でY字の細い支柱のようなものが立っていた。さすがにこの量のリネンが日々出るのだ、何列にも物干しの紐を渡せるようになっている。 「洗う前に紐を渡してしまってもいいですか?」 呼吸を落ち着けている奥さんに私が声をかけると、奥さんは汗が浮かぶ顔で申し訳なさそうに笑った。 「あら、少し休んでからするから、置いておいてもらっていいのよ。もしあなたの洗った物をかけたいのだったら、1列だけ渡してもらって、端の方を使ってもらうのは構わないわ」 「そんな、置いておけないです。私、家でいつもやってたので、これくらいならすぐできますから……」私は言いながら、紐の端を端の側にある支柱に結びつけ、反対端までY字の支柱のうえを渡していく。 「あらあら、手早いのね。何から何までごめんなさいね……」まだ少し苦しそうな奥さんの声が、私の背中にかかる。 「奥さん、悪いけど俺、そろそろ厨房を手伝う時間だから行くね」 「ええ、行ってちょうだい。そっちがあなたの本業ですもの」  妊娠中の奥さんを置いて、別の仕事だなんて。ずいぶん冷たいのではないか。  私は最後の支柱に紐を結びつけながら、宿屋の建物内へと戻る少年を見た。そんな私の様子を気にしてか、奥さんはおっとりと言った。 「どうか、あの子のこと、冷たいだなんて思わないで頂戴ね。お洗濯は時間がかかっても良いけれど、厨房の仕込みは一刻を争うから、人手がいるのよ。  冒険者の方はあまりお食事までしないと思うけど、商人さんたちは色々な時間帯に到着されてお食事も宿で済ませたい方が多いから、お昼ご飯を出してないと最近はなかなか部屋も埋まらなくてね」  奥さんは、「よいしょ」と言いながら石から立ち上がり、足でタライを立たせると、井戸のそばまでコロコロと転がした。  タライは思いの外大きく、直径は奥さんの腰ほどあるので、そこまで屈むことなく転がすことができている。タライを井戸のそばで止めて倒し、慣れた手つきでシーツをタライに入れると、井戸に桶を下ろして水を汲む。  奥さんの様子を見るに、毎日この作業をしていて慣れているから大丈夫なのだろう、きっと。  しかし、それでも。  私は黙っていられなかった。「あの、私お洗濯もやりますよ」  私の申し出に、奥さんはしかし渋っている。 「お気持ちはありがたいけど、あなたも用事があってここへ来ているんでしょう?この量をお洗濯したらお昼近くなってしまうわ」 「私、全然何の役にも立たなくて、そんな朝早くから大した用事もないので……」私の声には、否応なく自嘲の響きが混じる。  躊躇うようなしばしの沈黙の後に、奥さんは言った。「そうしたら、お言葉に甘えてお願いしちゃおうかしら。紐を渡す手つきを見ていたら、とても慣れているみたいだし。とっても助かるわ」  奥さんは、念のため井戸とその横と側溝、洗濯の仕方を説明してから建物へと戻って行った。  私はベッドリネンの山を前に、腕まくりする。  すぐそばの建物の窓が開いていた。建物の中、少し遠くから、少年が遠くにいる奥さんに呼びかけるらしい声と、それに答える声が聞こえる。 「奥さん、202号室の人、まだ寝てるよ!」 「いいのよ、あの人はほっといて欲しい人なの。夕方になれば出て行くわ」
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