第1話 目の前の海

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第1話 目の前の海

 千沙の目の前には海がある。海峡と呼ばれる細長い海で、流れが速く、小さな船は斜めに走って行かないと真正面には辿り着かないと聞いた。その向こうには町が見える。可愛い雑貨屋さんや、ちょっとしたショッピングモールがある町だ。  千沙は堤防に腰掛け、海峡の向こうの町を眺めていた。空にはウミネコが舞い、時折『ミウ』と言う声が聞こえて来る。町を自動車が走って行くのが見える。あそこにもこの島と同じ時間が流れているんだ。千沙は目を細めた。  その町と千沙が住む梅島との間には1日3便のフェリーがある。新聞も雑誌も手紙も、勿論生活に必要な品々もそのフェリーでやって来る。これまで幾度か千沙もそのフェリーに乗って町へ出掛けたことはある。しかし、学校行事以外でその町から先へは行ったことがない。15年も生きてきて、知っているのは島とその町だけ。今はネットがあるからわざわざ出掛けなくても様子は判るし、アバターを使った旅行やら、メタバースを使ったライブにだって参加することが出来る。それで充分。千沙はそう思っていた。  だって、怖いもん…  千沙は天性の『怖がり屋』だった。だけどここから見るだけなら安心。だから今日も学校の帰り道、わざわざ遠回りして、海峡が見えるこの堤防に座っている。  ウミネコ、何羽いるんだろう。千沙が指をさして数えようと右手を持ち上げたその時、  バサバサバサッ!  千沙の頭上を黒い影が駆け抜けた。  ひえっ、千沙は手と首をすくめ動けなくなる。こっわ… なに? トンビ?  千沙はトンビを知らない訳ではない。いつも空高くをピーヒョロと飛んでいる。しかしこんなに近くを飛ばれるのは初めてだ。そう言えばクラスの男子が、手に持ったおにぎりをトンビに(さら)われた話をしていた。あたしの手がおにぎりを持っているように見えたのかな。いや、手がおにぎりに見えたのかな。  え? 危うく手を攫われるところだった?   今更ながら、千沙に震えが来た。怖い…。そっと頭上を伺って見る。トンビはどこにも見当たらない。  落ち着け、千沙! そう、幾らトンビでもあたしをそのまま攫ってゆくことは出来ないだろう。だけど嘴とか爪で右手をカブってやられたら、只の怪我では済まない筈。もしかしたら手だけが千切れてしまうかもしれない。それは困る。だって右手はもしかして将来ハサミを握る手。  中学3年生、水取 千沙(みすとり ちさ)の将来は美容師かも知れないのだ。何しろ家が美容室、母が切り盛りする美容室シルクだ。梅島は人口が数百人の小さな島だが、人の頭に髪の毛がある限り、この商売は(すた)れない、だから安泰よ。母の水取 絹(みずとり きぬ)はそう言って暗に千沙に美容師への道を勧めてくる。尤も、美容室シルクは美容師を二人も置くほど忙しくはないのだけれど。  まだ決める必要はない。千沙は自分に言い聞かせる。だって突然流行り出した新種のウィルスが、人から髪の毛を奪い去って、人類は皆スキンヘッドになるかもしれないじゃない。あ、そしたらお母さん、失業しちゃう。あたしもヤバくなるな。それは駄目だ。そうじゃなくて、そう、お母さんだって高校生の時に決めたって言ってた。  高校は…、取り敢えず島の分校の一択だ。対岸の町の本校や、更に先の別の高校へも進学は可能だが、船で通うって実際有り得ない。そんな怖いことはしたくない。千沙はまた身震いする。『怖がり屋』に加え。運動は総じて不得意で辛うじて自転車の乗れる程度。何かにつけ気弱で内向的なインドア派。だから島の分校にしか行けない。恐らく新1年生はあたしだけだろう。分校は中学校の隣だから、代わり映えのしない日々の中で決めなきゃいけない。将来への道を。  もし美容師に、今はスタイリストと呼ぶそうだけど、スタイリストになるなら高校を卒業して専門学校へ通わないといけないと母は言う。 『一応、国家資格なのよ』  こう言う話になると母から必ず出て来る決めゼリフ。専門学校ってどこにあるんだろう。少なくとも向かいの町にはありそうにない。もっと大きな街に出なければならない。電車の駅があって高速道路があるような大きな街へ。  正直、怖い。テレビやネットで見るだけならいいけど、実際にその場に立った時のことを想像してご覧よ。千沙は傍らに舞い降りた1羽のウミネコに話し掛けた。  だってさ、道は広いけど、車やバイクがガンガン来るのよ。電車なんてどうやって乗るのか全然判んない。みんな忙しそうにさっさと歩いて、誰もあたしの事なんか目に入らない。ぼーっとしてると突き飛ばされちゃう。ほらアニメ映画で、魔法使い見習いのキキがいきなり街に降り立って、それで吹っ飛ばされてたでしょ。あれと同じ。 『そんなの大したことないわよ、すぐに慣れるし』  街で生まれ育った母は気楽に言うけど、生粋田舎娘のあたしにはいちいち恐怖なのよ。ねぇ。  ミャァー  ウミネコは千沙になんぞ目もくれずに飛び立つと、海面すれすれに突っ込んで急上昇する。ほんの小さな水飛沫(みずしぶき)が一瞬、陽の光にキラリと光った。  おさかな、捕まえたのかな。ウミネコは翼を拡げ、波を越えてゆく。いいな、鳥は自分の力で海峡を越えられる。だけど…。  千沙は堤防を降り、停めてあった自転車に跨るとえっちら漕ぎ出した。やっぱりずっとこの島にいるのが一番安心だ。島と町との間の海峡より、あたしの心の海峡の方が広くて深くて、簡単には渡れない。千沙は自覚していた。
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