染め屋の婆

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染め屋の婆

白抜きの文字で染め抜かれた藍色の(のぼり)が秋の爽やかな風にはためいている。  一見、無地に見える繊細な模様の江戸小紋は加工に大量の水を必要とすることからこの神田川流域を中心に「染め屋」が店を構えていた。  その神田川のほとりにひっそりと「深草番屋」が建っている。その質素な作りの番屋の入り口が何やら騒がしい⋯⋯。 「なんど来たって無駄だぜ。帰んな、婆さん」  深草の十手持ち、佐吉の秀麗な顔が不機嫌そうに歪められた。口の端には差し入れられた饅頭(まんじゅう)の餡がくっついている。  それを見た下引きの十蔵が慌てて、 「親分、その饅頭。あの婆さんが持ってきたものですぜ」  と耳打ちをした。 「あぁん?」  佐吉の機嫌はなおらない。 「こんな饅頭ごときで御公儀の役人を買収しようたぁ、どういう了見の婆だ! ううむむむむ──」 「そう言いながら、二つ目を口の中に入れないでくだせぇよ⋯⋯饅頭をのどに詰まらせて死ぬなんて親分らしいですけど」  十蔵は呆れ顔で佐吉の背中をさすった。 「⋯⋯ぷはっ! やい、十蔵。大体おいらは気に食わねぇんだ。大したことでもねぇのに、何でも番屋に頼めばいいだろうって根性がよぉ」  フン! と鼻をならして、佐吉は手にした湯のみの出がらしのお茶を一気にのどに流し込んだ。 「差し入れを食らったからにはこちらの言い分もお聞きくだせよ、親分さん──」  それまで黙って控えていた小柄は老婆はカカカッと笑いながら顔をあげた。 「ふん。よく見りゃ、染め屋『吉岡』のお吉婆か。さすが噂通りのやり手婆だぜ。⋯⋯で、おいらにいったい何をさせたいってんだ?」  佐吉は眉を寄せた。 「親分さんにゃ用はありませんや」 「は?」 「今回の件は是非、桑原の旦那に取り次いでもらいたいんです」  老婆──お吉婆の言葉に佐吉はカプリをふった。 「ダメだ。旦那は滅多に訴人にゃ会わねぇ。忙しいお方なんだよ──」  十蔵は驚いて佐吉の顔を見た。 「へぇ?」  同心の桑原はいつも番屋で寝ているばかり。忙しいという言葉とは一番縁の遠い上役である。 「ま、饅頭代だ。十蔵、おめえがかわりに付き合ってやれや」  十蔵ははぁ、っと大きく息を吐き出した。 「そんなの、もうとっくに聞きやしたぜ。──婆さんが言うにはとんでもない化け物が『染め屋吉岡』にやって来たというんですが⋯⋯」 「はぁん? 鬼だと!? ⋯⋯確かにウチの旦那は腕だけは化け物のようにたつが──肝心の腰のものはとっくに竹光になっちまって⋯⋯クソの役にも立ちゃしねぇよ。  おい、十蔵。そもそも化け物云々なんてお吉婆が呆けて妄言吐いてるだけじゃねぇのか?」  腕を組んで唸る佐吉に、 「あっしはそんなことわかりませんよ。でも『恐れながらこのままだと死人が出ます』と言われちゃあ無下に聞きながせませんや」  地回りの十蔵はぶっすりと言った。 「とにかく、婆さんがそう言って引き下がらないんで。なんとかしてくだせぇ」 「⋯⋯なんとか、って言われてもなぁ。まぁ、桑原の旦那なら今しがたも番屋の奥で昼寝してるが⋯⋯知ってるだろ? あの寝起きの悪さ」 「だからでさぁ。桑原の旦那を起こせるのは佐吉親分しか⋯⋯」 「よせやい」  佐吉はぶるリ、と身をふるわせた。  昼寝を邪魔をしたと言われて半目になった桑原に首を撥ねられそうになった事を思い出したのだ。 「おいらだって痛い目はみたくないや。そんなに旦那を起こしたかったらお内儀のお竜さんを呼んでくるんだな」 「そんなことは分かってます。お竜さんが見つからないから⋯⋯仕方なしに親分に頼んでるんじゃないですか」  深いため息をついて十蔵は番屋の奥の間を見た。 「わーったよ。やればいいんだろ、やれば」  佐吉はヤケクソで叫ぶとガラリと奥の障子を開けた。 「旦那、お客さんですぜ──」  ◇◆◇◆◇ 「で? その曲者が人では無いという証拠があるのか?」  白目を剥いた佐吉の上に座りこんだ桑原が眠そうに月代(さかやき)を掻いた。 「へ、へぇ」  お吉婆は青い手ぬぐいらしきものを桑原に差し出した。 「ふむ。さすが吉岡、見事な染物だな」  桑原は指でつまむと、興味無さそうに見聞した。 「旦那、しかし珍しい⋯⋯こりゃあ不思議な色合いの藍染ですね。青色が輝いてるような⋯⋯これを売り出せばめっぽう人気が出るんじゃなかろうか」  桑原から受け取った十蔵がしげしげと眺めた。 「ありがとうござんす。しかし、実はそれはウチの藍染の色ではありませんのです」 「ほう」 「実はその青色、忍び込んだ曲者にウチの若い衆が手傷を負わせた時の血しぶきなんで」 「⋯⋯うげっ!」  十蔵は手ぬぐいを放り出した。 「なるほど。人ならば赤くなるはず。しかし、異国人でも青い血の持ち主がいるなんぞ聞いた事はねぇ。つまり、これは化け物の血だ。と言いてぇわけだな」 「はい。本当に恐ろしいことで。なぜこのような者がウチの染め場に忍び込んできたのやら⋯⋯」  ガタガタとお吉婆はいささか芝居がかった様子で自分を抱きしめた。 「⋯⋯ま、多分もう来ねぇだろ。これにて一件落着~」  そう言い放つなり、桑原はゴロリと横になった。 「旦那!?」 「うるせぇ。もう俺の昼寝の邪魔するんじゃねぇ。もうこんな時間だから夕寝になっちまったじゃねぇか」 「⋯⋯ちょいと親分さん、本当にこの方があの無敵の桑原様なんですかい?」  お吉婆は疑わしい目を桑原に注ぎつつ、十蔵に質した。 「あぁ、間違いない。このお方はその名高い桑原様だ」  真面目な顔で十蔵は受けあった。  確かに桑原の着物はくたびれているし、めっきり風采もあがらない。町方同心というより、身を持ち崩した浪人といった方がしっくりくる風体だ。 「その辺の道場師範たちが束になってかかっても桑原の旦那にゃ敵わないさ。とくに銭がかかってた日にゃ、間違いなく無敵だぜ」 「よしてくれ。そんな噂が奉行の耳にでも入ったら面倒だ。それにもう刀をぶん回すご時世じゃなかろう。  今度減給をくらったらお竜に俺が竹光のように折られちまう」 「⋯⋯この界隈で最強はお竜さんに違いねぇな」  ようやく目が覚めた佐吉がゲラゲラと笑った。いつも一言多い親分をハラハラしながら十蔵が見つめている。 「女房が怖い方が上手くいくんですよ」  色っぽい声が番屋に響いた。 「お竜」  桑原が慌てて身体を起こす。 「こんな遅くまでおつとめご苦労様でございます」  すっかり陽が落ち、番屋の外は薄闇に包まれていた。 「差し入れですよ、親分」 「いつも悪いな、お竜」 「さすが評判の最強女房殿」  差し入れの握り飯の包みを受け取ると佐吉はホクホク顔でさっそくそれを卓袱台に広げはじめた。 「ちょいと、佐吉親分。のんきに握り飯食べてる場合ですかい?」  すっかり放置されたお吉婆は焦れたように佐吉に詰め寄った。 「ん? 旦那がもう来ねえって言ったらもう来ねぇから終わりだろ。さ、帰った帰った。もう暗いから気ぃつけて帰れよ」  口いっぱいに握り飯を頬張った佐吉が犬の子を追っ払うように手をふった。 「そんな──またあの青い血の化け物が来たらどうしたらよいので?」 「江戸小紋は型染めだ。紺地に白抜きをするのに吉岡は西海子(サイカチ)などの薬品を使ってるな? その中に、人の血に反応して青くなるものがあると聞くが──」  桑原はギロリとお吉婆を見た。 「旦那、それはウチの自作自演だっておっしゃるんで?」  ギリリ、と唇を噛みしめるとお吉婆は桑原を睨めつけた。 「さてなぁ。今年は水害で染め場が流されて大変だったようだ。あの惨状から並の商売では取り返せまい。  瓦版に拡散して貰えるような目玉を作ることが出来ればさぞかし金になるであろう、と思ったまでよ」  耳をほじりながら、面倒そうに桑原は言った。 「なるほど。瓦版で拡散したかったら桑原の旦那の化け物退治がくっつけば鬼に金棒って訳ですね」 「さぁな。まことの鬼は人の心に棲むものであるからなぁ。そんなものだと俺には全く手に負えんよ」  桑原は愛妻のいれたお茶を美味そうに啜った。 「⋯⋯なるほど。これは旦那を甘く見すぎていたかもしれませんな。今日のところは帰らせていただきますよ」  お吉婆はニンマリと笑った。 「おやおや、秋の終わりは陽が落ちるのが本当に早いこと。これはすっかり暗くなりましたねぇ──」  お吉婆は番屋の戸口で立ち止まると頭を下げた。  番屋の提灯に照らされて土間に青黒い影が伸びる。 「⋯⋯っ!?」  その影を見た佐吉と十蔵が声にならない悲鳴をあげた。  影の頭部にはニョッキリと二本、角らしきものが突き出していたのだ。 「なんだ。本当に完璧な自作自演だったみたいだな」  桑原はお竜にボヤいた。 「染め物よりも一番見事に人の世に染まっているのはお吉さんでしたね」  そう言うとお竜は魔物めいた金色の虹彩を隠すように愛する夫、桑原の背中に顔をうずめた。
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