2.恋人になったが

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2.恋人になったが

「え?まだ川瀬くんとデートしてないの?」 飲み会から10日経った昼休み、 偶然会社近くのコンビニで会った神代綾に、 その後の川瀬との進展を訊かれ答えたのだ。 「いや、実はね‥‥」 飲み会ではあれだけ僕に煽るような言動を 繰り返した川瀬だったが、LINEで連絡しても 既読にならず、電話をしても繋がらない。 心配になって配属先の広報部に顔を出して みたが、先輩からのレクチャーを受けていて 僕の視線にも気づかないという状態だった。 「皆の手前、合わせただけなのかも」 気落ちする僕に、神代さんも深く息を吐き、 「それはないと思うけど‥‥とりあえず、 仕事が始まったばかりで余裕がないのかも。 また近いうちに飲み会を開くから、川瀬くん にその辺りを訊いてみて?」 と言った。 「神代さん、ありがとう」 僕の部署がある総務部の階にエレベーターが つき、神代さんと別れた。 トイレに立ち寄ると、ちょうど佐橋がいた。 「お、岸野。これからメシ?一緒に食おう」 佐橋に微笑まれ頷くと、 テンションが低いことに気づいたのだろう、 佐橋が肩を抱き囁いてきた。 「何、川瀬と何かあった?」 「とりあえずトイレ」 「ああ、ごめん。待つ待つ」 パッと手を離され、自由になったところで 手早く用を足す。 手を洗い、佐橋と並んでトイレを出ると、 今度は秋津がちょうど廊下を歩いていた。 「今日は偶然が重なるな。秋津、昼は?」 「これから食堂に行こうかと」 「岸野と会って、食べようかって言ってた。 じゃあ、食堂に行こうぜ」 僕がサンドイッチの入ったレジ袋を持ち、 3人揃って食堂に足を運んだ。 窓際のテーブルを確保し、佐橋と秋津が 並んで座る。 「で?あれから川瀬とはどうなった?」 身を乗り出した佐橋に囁かれ、サンドイッチ を広げながら、ぎこちなく微笑んだ。 「LINEも電話もダメで、部署に行っても タイミングが悪かったかあ。秋津、これは 川瀬を皆で呼び出しだな」 「ね。あいつ、満更でもなかったのにな。 岸野、近いうちにまた飲み会しようぜ?」 「さっき神代さんにも言われたよ。うん。 ありがとう、待ってる」 サンドイッチを頬張り、窓の外を見た。 今頃、川瀬はどこにいるんだろう。 いちばん会いたい人に思うように会えない、 この状況に歯痒さを感じていた。 「じゃあ、来週金曜日が最有力候補という ことで。岸野、落ち込むなよ」 佐橋に肩を叩かれ、フロアに戻った。 それから更に数日経ったが、 恋人の川瀬からの返信はないままだった。 「川瀬の連絡がない理由がわかったよ」 金曜日の夜、再び同期が集まった飲み会。 遅れて来るという川瀬を待ちながら、 秋津の話に耳を傾けた。 「あいつ、スマホをなくしたらしい。 バックアップはとってたらしいけど、 見事に俺たち4人のデータだけなかった らしくてさあ。だったらフロアに来いよって 思うよね」 「わざわざ、川瀬に確認してくれたんだね。 秋津、ありがとう。ホントなら僕がするべき ことだったのに」 「全然平気。オレもLINEしたのに連絡が つかないから、びっくりしたよ。まあ今回は そんな些細なすれ違いだったってことで」 「でもさあ」 カンパリオレンジを飲んでいた神代さんが、 言葉を挟んだ。 「些細なすれ違いが、今は命取りだよ。 まだ始まってもいない2人なんだし」 「まあな。で、川瀬が岸野に何て言うか。 岸野は恋人なんだし、連絡できないなら できないで何かできたはずなんだからさ」 「おっしゃる通りです」 その声と同時に障子が開いて、 川瀬が僕たちの個室に入ってきた。 「川瀬、よく来たな」 笑いかけながら、佐橋が立ち上がった。 「今夜は誕生日席でな」 「うん。遅れてごめん。そして連絡先を なくしてごめん。スマホ買ったから、 また連絡先を教えてくれる?」 「いいよー」 神代さんが微笑みながら、僕に目配せした。 いったい何日、川瀬と会ってなかったのか。 「岸野、久しぶり」 僕の斜め前に座った川瀬に見つめられ、 僕は小さく息を吐いた。 「心配したよ」 「ごめん。岸野の部署に何度か行ったんだ。 でも、その度に岸野がいなくてさ」 「そうだったんだ」 「というか、来たなら来たでメモを残せよ。 岸野がかわいそうだろ?」 「秋津、ありがとう」 「ホントにごめん。そうだよね。悪かった」 「とりあえず、仕切り直しで乾杯しよ? 川瀬くん、何飲む?」 「神代さん、ありがとう。じゃあ生中を」 「というか、営業部の佐橋と経理部の秋津、 秘書課の神代さんに、広報部の川瀬。仕事は どんな感じ?少しは慣れた?」 「それがさあ」 「早速、大失敗」 「私もやらかしたー」 川瀬以外が口々に言葉を発し、 僕は思わず苦笑いしてしまった。 「順番に聞くよ。会は始まったばかりだし」 「「「ぜひ」」」 川瀬も来たことだし、楽しく過ごせる。 僕はやっと笑顔を取り戻すことができた。 川瀬との乾杯が済み、 3人の失敗談を聞いて爆笑した。 そしていくらか酒が進んだタイミングで、 佐橋が言った。 「あれ。デートの約束はしないの」 「ホントだ。岸野、酔っ払ってる場合じゃ」 「あ、うん。後でLINEしようかなあって」 「さすが内気くん。いいんだよ?私たちの 前で恋人の会話しても」 「そ、そうだね‥‥」 ちらっと斜め前に座る川瀬を見ると、 川瀬はビールを飲みながら、 ん?と僕を見て首を傾げている。 「川瀬も、何だその他人事みたいな顔して」 秋津が呆れたような口調でツッコミを入れ、 神代さんが口を開いた。 「テレてるのかな。私たち、ちょっと席を 外そうか?2人きりの方が話せるとか」 「だ、大丈夫だよ。そこまでしなくても」 「いや、ちょうどタバコ切らしたし、 買いに行くよ。裏手にコンビニがあったし、 佐橋、神代さん、付き合ってよ」 秋津が立ち上がり、2人がそれに続いた。 「10分で戻るから、じゃあな笑笑」 障子が閉まり、川瀬と2人きりになった。 相変わらず川瀬は、ビールを飲んでいる。 僅かな沈黙を破り、僕が言った。 「どうしようか。いつなら空いてる?」 「明日でも明後日でも大丈夫だけど」 「そうなんだ。じゃあ、明日にする?」 「いいよ」 「川瀬、休みの日はどんな風に過ごしてる? 映画とか観る?」 「最近はあまり観ないね」 またビールを一口飲み、川瀬は微笑んだ。 「岸野が行きたいところで、構わないよ」 「川瀬んちって浦和だよね。うちは王子。 よく埼京線を使って池袋に出るんだけど、 とりあえず赤羽駅で待ち合わせしない?」 「いいよ、何時に?」 「うん。10時で大丈夫?」 「大丈夫」 「じゃあ、10時に赤羽駅改札で」 「わかった」 川瀬は最後の一口を飲み干して、 メニュー表示されるタブレットを手にした。 「岸野も、飲み物頼む?」 「あ、うん。ハイボールを追加で」 「じゃあ、頼んでおくよ」 僅かに詰められない、 川瀬との心の距離を感じていた。 酒が入ると開放的になる人が多いのに、 川瀬はとても冷静だ。 優しく微笑んでくれているが、 時折見せる横顔が少し冷たく見えた。 きっと、好きなのは僕だけなのだろう。 付き合ってもらえるだけでもありがたいと 思えばいいのだろうか。 「どうした?」 美しく隙のない笑顔の川瀬に訊かれ、 僕は小さく首を振った。 それでも好きだから一緒にいたいと思った。
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