そして欠けた月を見ている

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ざわつく朝のホームルームの時間は、林先生の一声で静寂に包まれた。 「陽菜乃さんがお亡くなりになられました」 一泊の間をおいて皆の視線は、名前を呼ばれた彼女の空席に集まった。廊下側の一番前の席だ。出席番号順のまま、席替えも終えていないこの時期に、彼女の空席は嫌に目立っていた。 二年D組一番、相原陽菜乃(あいばらひなの)。このクラスで最初に呼ばれる名前は、ただの一度も返答がなされることは無かった。 「今朝、陽菜乃さんのお父さんから連絡がありました。詳しい話は警察の見分が終わるまでは明かすことはできませんが、おそらく事故、事件ではないとのことです。そして病気でもありません。どういう意味か皆さんは分かりますよね」 瞬き一つせず、林先生は告げる。私はぞっと背中に寒気が走るのを感じた。 「……自殺ってこと?」 躊躇(ためら)いがちに遠藤(えんどう)広樹(ひろき)が尋ねる。私の一つ前の席に座る彼から、喉を鳴らす音が聞こえる。いつもの陽気なキャラからは想像もできなかった真剣な声色に、不思議と拳に力がこもる。 「はい。そういう事です」  ぶれることなくこぼれ出た肯定の声に、クラスが波立ち始めた。隣や前後に座る人と顔を見合わせては、声にならないといった様子で大げさな身振りを繰り返す。そんな中、火をつけた張本人はひとしきり生徒たちを眺めた後、大きく息を吸い込んだ。 「何故、この話を皆さんにするのか不思議に思う方も多いでしょう」 張りのある、強い声が教室に響く。少し威圧を感じるその声に、生徒たちの動きは止まり、言葉の続きを待つように、教壇へと視線を戻す。 「本来、この件は、陽菜乃さんの内情的な問題も含みますので、それを不特定多数の他者に公開することは倫理的にありえないことと。それに、私も教師の端くれである以上、皆さんの健全な教育指導に多大な影響を与える私的行動は慎むべきであるとは理解しているという事。後ほど多数の指摘があると思いますが、この2点を踏まえたうえで私が話しているということを皆さん覚えておいてください」 いつになく口数多く、一切の笑みを見せない林先生の様子に、クラスの空気は張りつめていく。確かに呼吸をしているはずなのに、どうにもうまく酸素が取り込めない。乱れた呼吸音が胸の痛みを自分のモノだと知らせてくれる。私は眉を潜めながらも、目を閉じることは無かった。何故だか、今教壇に立つ教師の一挙一動を見逃してはいけない気がしたのだ。 「頼まれたんです。陽菜乃さんから」 薄紅色の唇から紡がれた言葉は信じられないような内容であった。呆然とする私達を尻目に先生は、胸元から携帯を取り出すと、教卓の上に置いた。 「陽菜乃さんのお父さんから、今朝届きました。彼女の携帯に残されていたそうです」 先生が指先で操作すると、数秒の沈黙の後、布がこすれるような音が聞こえて陽菜乃の声が流れ出した。 『……。林先生にお願いがあります。私が、相原陽菜乃が自殺することをクラスのみんなに伝えてください。伝えるだけでいいんです。きっとそれだけでわかると思うので。ご迷惑をおかけすることは分かっています。けれど、これは最後のお願いなんです。どうか、お願いします』 音声はそこで途切れた。携帯を自身の胸ポケットにしまうと、林先生は教室をぐるりと見渡した。 「紛れもない、彼女からの伝言です。悩んだ末、私は、陽菜乃さんのお願いを訊くことにしました。皆さんの事を考えていない自分勝手な行為だとは自覚しています。ですが、それ以上に知ってほしかったのです。彼女が何故死を選んだのか。何故皆さんにそのことを伝えたかったのか」 ぐるりとまた先生の目がクラスを隅から見る様に動く。私はそこで気づいた。いや、もしかしたら私たち全員が気付いたのかもしれない。林先生の視線がいつになく気味悪く映ることに。あれは、私たちを見ているわけでなく、何かを見つけ出そうと観察している眼だ。 つまり疑われているのだ。相原陽菜乃が死んだことに私たちが関係しているのではいるのではないかと。 「先生、私たちがいじめでもしてたって言いたいの」  語気を強めて、倉橋(くらはし)桜子(さくらこ)は立ち上がった。金色に染められた髪を揺らし、拳を机に叩きつける。「そんなことあるわけないじゃん。だいたい私たちそいつの事一切知らないんだよ」  その言葉に何人かのクラスメイトは頷く。桜子の言う通り、おそらくこのクラスの大多数は陽菜乃のことなど何も知らないはずだ。  新年度が始まって、クラス替えがあった。一学年に700人を超える生徒数を持つ私たちの高校は進学クラス、外国語専攻クラスを除いて全部のクラスがシャッフルされる。その為、大体のクラスメイトは2年生になって初めて顔を合わせた人がほとんどだ。そんな中、陽菜乃は2年生になって一度もこのクラスに顔を出したことがなかった。彼女は不登校だったのだ。皆、空席の存在と陽菜乃の名は知っていても、彼女の顔も見たことがないはずだ。きっと桜子もその一人であったのだろう。 「桜子さん、不快にさせてしまったのなら謝ります。勿論、皆さんと陽菜乃さんの間にそのような事態が起きているとは考えておりません。ですが、陽菜乃さんが残した言葉が私の胸の中に疑惑を生んだことも事実です。私は新年度初日に皆さんに言ったように、嘘偽りを口にしません。だからこそ単刀直入に尋ねます。陽菜乃さんは何故皆さんに自殺したことを知ってほしかったと思いますか?」  毅然とした態度で視線を向けられ、桜子の視線が左右に泳ぐ。「そんなこと聞かれても……」  分かるわけがない。小さく零した後、彼女は力なく席に腰を落とした。それをきっかけに、生徒同士のささやきが広がっていく。ほどなくしてホームルームの終わりを告げる予冷が鳴った。 「疑念を投げたままの中断となり申し訳ありません。万が一、何か心当たりがあった方、もしくは推論がある方がおられましたら、また個別でお話をお伺いしますね。それでは皆さん。今日も一日宜しくお願い致します」  深く、頭を下げて林先生は教室を去る。だが、クラスのざわめきは収まることは無い。 「なあ、知ってるか?」  隣の席から私に声がかかる。主語の抜けた言葉だが、それが相原陽菜乃についての事だとすぐに分かった。「ううん」と私は首を振って返す。 「そうだよな」私の言葉に頷きながら、隣の席の桑原(くわばら)智基(さとき)はこめかみを叩く。「林先生も一体何だってんだ。自殺に起因する何かを本当に俺らが握ってると思ってるのか」 「それは分からないけど。でも何か疑われている気はするね」  私は言葉に広樹の同調が入る。 「うん、それは俺も思う」 「うっそ、広樹でも分かる感じなの」 「桜子、お前ちょっと馬鹿にしてるよな」 「まあ、若干」 「お前なあ」 「まあまあ落ち着いてよ」  私は広樹をなだめながら、周りを見る。様々な憶測が飛び交うが、皆困惑した表情を浮かべている。「みんなわからないって感じだね」 「ま、会ったこともないし当然よね」 「うん、やっぱりそうだよね」  桜子の視線の先、相原陽菜乃の空席に私も目を向ける。そのクラスメイトの名前こそ知ってはいても私にもどんな人なのかも分からない。 「まあ、たとえこの中に相原さんを知っている奴がいたとしてそれが何だという話になるだけだと思うがな」 「だよな」  智基の言葉に広樹が続く。確かに、智基の言う通りだ。相原陽菜乃について知っている人がいたとして、現状の問いの答えとなるわけではない。 何故自殺したことを皆に伝えたかったのか。 「単純に考えて、桜子の言った、自殺の起因が俺らにあって、報復のような形の宣言なのか、それともほかに思惑があるのか」 「他って、桑原は何かあんの」 「分からんが、一つ、インパクトを残すためにメッセージを残したとしたらどうだろうか」 「印象を強く持たすためってこと?」  私の言葉に智基は頷く。 「何? どういう事」 「リストカットと似たような心理状況だと思ってほしい。相手から興味を持ってもらいたい人物が、自傷行動を起こすことで、こちらの興味を引こうとするやつだ」 「かまってちゃんってこと? でもそれ死んだら意味なくない?」  広樹の疑問符に智基が答えて、その回答に桜子が突っ込みを入れる。 「それは、自傷行為をする人物の最終目的がどこにあるかに変わってくるな。例えば、リストカットを行う人々の大半が、人に認められたいという願望を満たすことが目的だ。つまりその衝動を満たすためには、満たされたという実感をその身で感じないといけない為、生きる必要がある。だが、そうではない場合、死んでいても目的が達成されるなら自殺でもあり得るというわけだ」 「なるほどね」 「よくわかんないけど、死んでも叶えたい願いがあったとでも思えばいいの?」 「うーん、ちょっと違う気がするけれど、良いんじゃないかな」  首をかしげながら、私は答える。単純な物事の整理として示すなら、広樹の言っていることも間違いではないはずだ。ただ尋ねられている部分の違いがあるだけだ。要因ではなくて、結果がもたらす意味がこの問題の争点だ。 「優希はどう思うの?」 「え、私? えーと。そうだなあ、名前を覚えてもらうため……とか」  桜子に向けられた疑問符に、少し考えて私は答える。 「ええ、普通そんなことで死ぬかな」  広樹は眉を下げる。自分でも言っておいてもなんだか私も広樹に同意だ。それで人が死ぬとは思えない。「だよね。あんまり思いつかないや」言い訳のように言葉を添える。 「まあ、分からないさ。存在を示すためだけに死ぬ人間だって世の中にいるさ」  私をフォローするように智基の言葉が飛ぶ。自殺する人間の心理に何か異常が起きているケースは多いんだから。続けた智基の言葉に、桜子がため息をつく。 「それじゃ、お手上げよね。私たちに何が分かるっての」 「んでも、林先生はそれを聞いてんじゃねえのか」 「聞かれても分かんないものは分かりませーん。宜しければ、私より頭がいい広樹さんが答えてあげてくださーい」  興味を失ったとばかりに、桜子は両手を上げると、広樹をからかいながら、通学鞄の中から、教科書を取り出す。「私は次の国語の小テストの勉強でもしてるんで」  その言葉にはっとしたように広樹と智基も教科書を取り出す。そうだった次は私たちを受け持つ教師の中で一番厳しい河野(こうの)先生の小テストがあるのだ。ここで赤点でも取ろうものなら、放課後長い補修と面談が待っている。私も同じように教科書を取り出して、ふとクラスを見渡す。いつの間にかざわめきはほとんど収まって私たちと同じよう次の準備を行っている。あれほど視線を向けられていた相原陽菜乃の席をもう誰も見ていない。 「変な感じ」  日常に戻りつつある光景を見て私は独り言を零す。 「どうかしたか」 「クラスメイトが一人亡くなっているのに、なんも変わんないんだね」  私の一人言葉を拾った智基に、私は問いかける。彼は視線を教科書に落としたまま答えた。「変わるわけがない。元々彼女はこの教室にいなかったんだ。多少の噂話にはなっても、俺たちの生活が変わることは無いよ」 「そんなもの?」 「そんなものだろ。それとも何か、思ったことでもあるのか」 「いや、……特にないよ」  少しドライな考えだと思えたが、私は智基の答えに反論をすることは無かった。確かに、私の胸に喪失感があるかと問われればないと答えるだろう。ただ何となく後ろ髪をひかれる思いになったのは、皆があまりにも早く日常に戻ってしまうからで。  私はもう一度、相原陽菜乃の席に目を向けた後、教科書に視線を戻した。
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