ゴースト・ゴースト

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ゴースト・ゴースト

 とある、有名な小説家が亡くなった。  自宅で自ら命を絶ったようだった。てっきり僕は大々的に、マスコミに事情を説明し、世間を悲しみの渦に陥れるのかと思っていたが、彼の担当編集者はおもむろに僕を呼んでこう言った。 「彼の代わりに、新作を書いてほしい」と。  僕はその依頼に、まずはとても躊躇した。というのも僕は、コンテストに何度も応募してはいるものの、数回、賞を掠めたりする程度のしがない新人作家でしかなかったからだ。あんなにも偉大な小説家の名を、本人も臨まぬ形で譲り受けるのは大いに躊躇われた。  けれど、それと同時に僕は彼の大ファンでもあった。担当は、僕が断れば僕以外の誰かが彼の名を名乗ることになる、と言った。僕は本屋で、今日以降に出版される、彼の名が表記された新作を手に取ることを想像した。そしてそこに、酷い嫌悪感を知った。真実を知っている僕にはとってそれは、とても耐えられるものではなかった。  僕は担当に鍵を借りて、彼の借りていたアパートの一室を訪れた。彼が執筆をしていた机の傍に寄り、そこに散らばっているまだ温かいプロットのメモを手に取った。恐れながら僕は、彼に何度もファンレターを送ったことがある。ご丁寧にもそれらに返答をいただいていたために、僕は彼の手書きの文字をよく知っていた。神経質そうに端から詰められた小さな文字を眺め、僕は彼の描こうとしていた世界に思いを馳せた。 「どう、やってくれる気になった?」  気がつけば部屋の入り口に担当がいた。僕はいつの間にか、彼が腰掛けていたであろう椅子に腰掛けていた。そうして彼がいつも使っていたペンを手に取り、まだ新しいコピー用紙に続きを書いていた。なんとなく読み返してみる。悪くない、と自分でも思える内容だった。その席から僕は初めて、彼の見ていた景色を見た。悪くない、と呟いて僕は、担当に返事をした。  さて、そうして僕は彼の名を譲り受け、いわゆるゴーストライターというものになった。僕は僕としても、今までの名前でもって作品を書くことを許可されたが、とてもじゃないがそれはできそうになかった。彼の名を名乗るのであれば、身も心も彼の作品に投じなければならない。僕は、賞を掠める程度の僕の名前を捨て、彼として生きることを決意していた。 「あの人のことをこれほどまでよく知る作家は、君を置いて他にはいないだろうね」  そう担当に言われたとき、彼女は少し哀れむように笑っていた。それほどまでに僕は、彼に没頭していたのだと思う。彼の作品を読むときは一字一句、正確に拾い上げてその言葉選び一つに思いを馳せるように、僕は彼の生活を少しも違うことなくなぞった。  彼の行きつけのスーパーには週に1度、月に3回程度。行かなかった週には、例えば彼の好きな中華料理屋に足を運んだ。月に2度、彼のお気に入りのショップでコーヒーを買う。執筆をするときは午後4時以降、夕日が執筆を邪魔しない程度にカーテンを閉め、コーヒーの香りをお供に、僅かに窓を開けてから始める。平均して4時間ほど、空腹を覚えるまでは執筆を続ける。  僕は彼の生活をきっちりとなぞり、彼になりきった。それは、彼の生活に僕を沈め、彼に染まりきるような心地を僕に与えた。僕の手は彼の字に似た神経質なプロットを書くようになったし、僕の背格好はだらしない猫背の癖がついた。彼のことをよく知る人間は、もう僕を置いてもう他にはいないだろう。そういった自負ができるほどには、一分一秒を細かく彼に投影していった。  その頃にはもう、彼の遺したプロットはおろか、アイデアを生み出すための走り書きのメモすら使い果たしていた。彼の物語の手がかりは全て、彼の名を冠した作品となった。それでも彼の描きたかった物語は、まだ僕の中にあった。  そうして僕の作家としての魂は、すっかり彼に染まったものとなった。元々の僕の名前すら忘れ、彼が亡くなった事実をも忘れ、元より僕が彼だったのだと、自惚れにも似た自我が芽生え始めた頃。その頃には彼になってから、10年は経っていただろうか。僕はついに、彼の名で大賞を取った。それは生前の彼が唯一叶わなかった賞でもあった。僕は我が事のようにこれを喜んで、否、自分のこととしてついには喜んだ。  ちょうどその頃、僕の作品に熱心なファンが現れ、定期的に分厚いファンレターをもらうようになった。賞を取ったときなどにはしばしば、当たり障りのない祝いのメッセージがどっと届いたこともあった。だが作品が世に出回り、話題としても落ち着いた頃になってもまだ、手紙を僕に送り続ける人がいた。 「この人、よく名前を見かけますね。まるで昔の冴木先生のようだ」  担当が、僕の知らない作家の名前を出しては懐かしそうにそう言った。確かにその名前を覚えるほどには何度も何度も、飽きもせずに手紙をくれている。あるときは新作を出してから5ヶ月後に「ようやく感想を書き始めることが出来ます」と冒頭に、原稿用紙にして20枚近い感想が送られてきたこともあった。なんなら作家にでもなれるんじゃないかと、彼に初めて手紙の返事をしたこともある。そのことがきっかけで、手紙の主は一層その熱量と勢いを増していくこととなった。  あるときは数年前に出した作品を改めて読み返したと、懐かしい物語への感想をくれることもあった。ややお疲れ気味ではないですか、と指摘された作品は確かに、一文を書き出すのにも苦労した場面があったと記憶している。そうして、手紙の主が僕という作家をよくよく理解していくのに、どこか懐かしい感覚を覚えていた。 「この子、作家になったそうですよ。うちの後輩が担当することになったとき、聞いたらしくて」  ふと、息抜きに担当が持ってきたカステラでお茶していたときに、彼がそんなことを言った。ちなみに僕の担当ももう二度ほど変わっており、彼はおそらくはもう、僕のことを知りはしないだろう。いつもの分厚い便箋を手に取り、後輩経由で聞いたという話をしてくれた。 「先生に憧れて、物語を書くようになったそうです。あなたのように、なりたくて、と」  それは、誰の言葉だっただろうか。はた、と考えてそれが自分の中にあったことに気がつく。僕は、誰かに憧れて、誰かのようになりたいと考えていたはずだった。  僕が考え事をしているのにもお構いなしに、担当はべらべらと話を続ける。 「文体の真似をして、けれどまだ、似せる事は難しいんですって」 「近所のスーパーで先生を見かけたこともあるそうですよ。よくお惣菜コーナーにいるって、バレてるみたいですね」 「先生が中華がお好きだって聞いてから、一緒に行ってみたいとも」 「コーヒーは飲めないそうですが、少しずつ慣れていっているそうで」 「夕方の執筆って、日差しがカーテンで和らいで心地よいそうですね。先生も夕方にいつもに執筆したりしてるんですか?」  僕はカップをガシャン、と落とし、跳ね上がって窓辺まで走った。そうしてカーテンを開き、薄く風を通したままの窓を開け放つ。  どこだ、どこにいる。  考えるまでもない。この窓が一番よく見えるのは、向かいアパートの三階、西から五つ目の部屋だ。夕日が反射する窓に、おそらくだが「その子」を見つける。 「先生?どうされました」 「……」  きょとんとした顔の、緊張感のない担当が僕を見る。僕はまばたきも出来ないまま、また外に視線を戻してその子を探す。三階、西から五つ目の窓は、開いていた。 「先生?」 「なあ……どっちだと思う?」 「何がですか?」 「……いや、なんでもない」  彼が知る由もないことを、聞いても仕方が無い。ここでようやく僕は、自分が忘れていたものを思い出した。思い出してしまった。忘れておけばよかったのに、僕は僕の魂が、彼の名に染まる前のことを思い出してしまった。それは生前の自分の人生を辿るような心地で、自分でありながら既に別人だった。そのせいで、僕はついぞペンを握ることが出来なくなってしまった。  僕はもう、彼にはなれないだろう。そう絶望したとき、僕はある話を担当に持ちかけた。これが最後の「彼」の再現だった。ここまでもが彼の予期していたことだったのだろうか。答え合わせなど出来やしないが、たぶんそうだろうとは思う。  担当は狼狽えるかと思っていたが、どうやら知っていたらしい。カステラを食べながら、なんてことないように「わかりました」と頷いていた。 「君は、彼の真似をしているのだろうか。それとも、彼に似せようと彼の真似をし続けた、僕の真似をしているのだろうか」  返事はない。けれど、君ならきっと「僕」に染まりきってくれるだろうに。
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