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2 オカネアルジャンチェントンヂェーニギディネロマネーゲルトホシイオクレ……オクレホシイ
ツルカメスベッタ女王の愛は狂乱的で執拗であった。それが媚薬のもたらした効果であり真実の感情の裏返しと分かっていても,私は満足している。
一方,私の女王に対する思いの薄れたのも,彼女とともに媚薬を吸ったせいである。ただ依然妻を誰よりも大切に感じていた。「薄れた」というより「正常に改善された」のかもしれない。
「こよなく愛しているよ」
「またまたそんな噓を。次はどの娘をお側にお呼びになるの」女王が私の胸に頰を埋めたまま,あちこちを抓りつつ,愛の呪文を聞かせてくれと憑かれたようにねだる。
オカネアルジャンチェントンヂェーニギディネロマネーゲルトホシイオクレ……オクレホシイ。繰りかえしせがまれて延々と囁きかける。
王宮の一室に流れる至福の時間を数発の着弾音が突きやぶった。暴動を起こす民に軍が威嚇砲撃を加えたのであろう。女王によって粛清された女官たちの親族が城壁外に押しよせているらしい。
「ああ,ああ忌々しい。身の程を知るがいい」腹だち紛れに接吻の嵐を浴びせかける。
「まあまあそんなに怒るのはおやめ――産後の体に障るから」
立て続けに出産した女王を労う。4人目は待望の姫君である。
侍従に命じて姫君をつれてこさせる。抱きあげれば姫君は朗らかな声で笑った。
「本当に可愛いね。どうしてこんなに可愛いのかな」
女王が悲鳴をあげた。姫君を摑みとり投げつける――
大理石のフロアに転がって「く」の字に曲がった小さな体はもう動かない。姫君は満面の笑みを湛えて事切れていた。
女王は姫君を火葬に付すことを拒絶し腐敗の進む骸を終日抱いて慟哭した。それでも深夜になると汚れたドレスのままで夫のもとへ来た。
豊満な肉体はやがて骨と皮だけの瘦身と化した。その身をあたためながら夜明けを迎えた私は腕のなかで激しい身じろぎを覚えた。「汚らわしい,身の程を知るがいい!」そう口走り両眼を見ひらいた顔面は憤怒と怨恨に塗れていた。
薬の効果が切れたと直感した。同時に女王は息をひきとった。ようやく苦しみから解放されたのである。
女王の亡骸を,既に蛆すら相手にしない姫君の残骸と一緒に手厚く葬ってから,媚薬並びに関連商品の製造及び取扱いをめぐる中止の触書を公布し,自らの手で媚薬に関する資料を悉く廃棄した。
オカネアルジャンチェントンヂェーニギディネロマネーゲルト王国は瓦解し,各国から亡命を拒まれた私は流浪の民となった。命を狙われる恐怖に一頻りとらわれるときもあるが,おおむね平静な心理状態にある。殺されるのも仕方ないという諦念に大きく支配されてもいた。
目下私を悩ませる最大の厄介事は媚薬研究者の弟子につきまとわれている状況である。私しか知らない生成方法の開示を迫り,寝ても覚めてもそばから離れない。
姫君の誕生直前に弟子の訪問を受けた一件を思いだす。女性研究者であるという理由から悋気の強い女王は国王との面会を阻んだのである。
「あのときの用件は何であったのかね?」
「効能と副作用についての新たな知見を御報告にあがったのです」
「媚薬のかね? 副作用としては醜貌や短命になったりする事例が報告されているが……」
「そのような確証を得ない事例でなく,服用者全員に認められた知見なのです」
「ふむふむ,どのような?」
「はい。媚薬の効能持続は2年以内と判明しました。つまり更なる服用を経験しない限り効能は2年以内に絶えてしまうのです。そして単回服用のみの女性には女子の誕生が確認されません」
愕然とした。
極めて優秀な研究者であり,誤謬があるとは思えなかった。
であるならば――女王は少なくとも媚薬服用の2年後に正気づいていたことになる。にもかかわらず私の妻として忍従をなめつづけた理由は何か。更には単回服用の女性に誕生しないはずの女子が女王に授かった理由は何か。
得られる答えは一つであった。女王は媚薬を重ねて服用したのである。
誰が薬を女王に飲ませたのか……
隣国の秘書官が媚薬に惑わされた末,本国の女王となった事実を知る者は私以外にない。国王への恋情を持続させる媚薬を第三者が女王に盛る可能性も皆無と言ってよい。
媚薬の呪文を執拗に唱えさせた女王の真意が今更ながら知れた。自ら媚薬を含み効果をもたらす呪文を私にかけさせた。
一体何のために自らの気持ちを蹂躙してまで,夫への恋情を保持する必要があったのか? 子供たちへの責任から善良なる母の役割を果たすために嫌悪する男の妻でありつづけようとしたのか? ならば外面だけを繕えばよい。それは到底無理と判断したゆえに媚薬の力を借りて精神を麻痺させる必要があったのか? それほど本心では私を忌諱し軽侮し怨恨を抱いていたのか?……
「お目通りが叶いましたとき女王陛下はおっしゃいました。オカネアルジャンチェントンヂェーニギディネロマネーゲルトホシイオクレは人の気持ちを後押ししながら人間関係を深化させてくれる妙薬だと。私も全く同感です。臆病な女人たちを救うためにもどうか媚薬の解禁を御再考ください」弟子の澄みわたった瞳が一抹の救済に感じられた。
しかしその大きな両眼は忽ち末期の妻のそれに重なった。彼女は夫を恨みぬいて死したのである。嫉妬に狂乱し腹を痛めた子さえ殺めてしまうような作用のある薬を,その開発者である国王を,そもそも彼のような男という存在を生来憎悪する女であった。
もう何も分からない。分かりたくもない。しかしいっそう深くなる愛おしさと寂しさが胸を搔きむしる。ツルカメスベッタが生きていればまた嫌悪するであろう。愛する女を苦悩させた罪悪に苛まれつつ老いるのが私に残された道である。
「1人にしてくれないかい。でないと変になって身投げでもしそうになる」
陽の沈む砂漠の地平線と同化する絶壁で風に吹かれた。折よく通りかかったキャラバンに弟子を押しつける。弟子は私の名を叫びかけて咄嗟に口ごもる。言ってしまえば師匠の正体が露呈してしまう。
「済まないが,要望には応えられない」一頭の駱駝の尻をうてばキャラバンが一斉に砂漠へと動きだした。
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