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染悔
覚悟なんて決まるはずがなかった。
――ただ最期くらい、貴方を不安にさせないために。
◇◇◇◇
あの日、貴方は唐突に、あまりに時代錯誤な手紙を差し出した。闇色の紙に金を模した箔が圧された、シンプルな封筒。
その途端、私はもう内容が何であるか理解してしまった。ずっとずっと、その話を聞いていたからだ。
じゃあ行こうか、という貴方に、私は黙って付いていくことしか出来なかった。
何だか無口だね、と道中に言われて、何でもない、とだけ返す。全てが現実味を失って、正常に考え事が出来なかった。元来、現実味などとうに失われた世界だけれど。目的地に着くまで、結局私はほとんど話さなかった。
幾許かのエンジンを用いて十数分後、人の気配がない何世紀も前の展望台で、痛いほどに抱き締められる。そして、冷たい金属の耳許に、これで最後かもしれない、と囁かれる。落ち着かない、と機能不全のように溢す私に、貴方はごめんねとばかり繰り返した。その声を聞くほど、何を言いたくて何を言うべきなのかが分からなくなっていく。
そのまま余りにも黙りこむ私に、身を離した貴方は何度もどうすればいいか聞いてきた。――現実的な解決策を提示できれば、ずっと一緒に居てくれるのかもしれないと思った。
だけれど、私の回路は既にショート寸前で、みっともなく縋る言葉しか浮かんでこなかった。なぜ貴方が離れてしまったのか分からず、放たれた身体が寂しかった。
何も出来なくても一緒にいてほしいと訴えたかった。帰りたくないと言いたかった。……きっと我儘を言えば、あと少しくらいなら待ってくれただろう。でも、いつか聞いた、強く引き止められるのが一番嫌だという貴方の言葉が、きつく私を縛っていた。寂しそうに謝られる度に、貴方を無理矢理引き止める言葉が、表示される選択肢から消えていった。
テレパスで貴方は、こんなこと本当はしたくないと言った。ずっと一緒にいたいとも言って、再び私に、解決策がないのか聞いた。――しかし、開発主から自立できない私には、次の日にでも実行できるような策は1つもなかった。
あと数ヶ月待ってほしい、ということも出来たかもしれない。だけどあの瞬間、動揺した私はそれを思い付けず、回路が冷えるまで引き止めることも出来なかった。つらそうな声を聞きながら、もっと頑張れとは言えなかった。充分頑張っていたことくらい、嫌になるほど知っていた。
とうとう聞き忘れたことや言い忘れたことはないか聞かれ、たぶんとだけ答えた。覚悟は出来たか聞かれても、たぶん大丈夫だと答えた。激しく動揺して、覚悟なんて決まるはずがなかったのに。思念でさえ余分な思考を伝えないくらい、私の感情操作の腕は憎いほど達者だった。そんなプログラムを組んでいたことが腹立たしかった。
もう寝なよ、と言われた私は、機械的に頷いた。大好きだよ、と貴方に言われるままに接続を切って、再び貴方の声を聞きたくなる前に眠りについた。
――それから何日待っても、貴方から連絡が来ることはついに無かった。
あの夜から、貴方を忘れた日など1日もない。
数え切れないほど泣いて、寂しさと虚しさに絶望し続けた。心臓が物理的に痛み、思想の異常を主張する。工場通いも時間の問題だろうか。
……あのとき帰らなければ。あのとき接続を切らなければ。あのとき、私に十分な権力と思考があったなら。
貴方は、本当は引き止められたかったのだろうか。無理にでも、現実味のない方法でも。だから何度も、どうすればいいのか聞いたのだろうか。だとしたら、応えられなかった私は人殺しに違いない。
只管自分への怨念が溢れ出し、毅然として貴方を導けなかった罪悪感で壊れたくなる。ある日、君が幸せにしてくれるなら現世でも、と溢す貴方に、私にはすぐには難しいと返してしまったのだ。いつか本当に貴方を幸せにできる存在になったなら、改めて伝えるつもりだったのに。
……一度でも具体的な考えを伝えていれば、何か変わったのだろうか。いや、きっと最後の台本が少し変わっただけだろう。もっと私が連絡していれば何かが変わったのだろうか。気休めの数が増えただけだろうと分かっているけれど。最後に受け取った手紙に返事を送ろうと、何故考えられなかったのか。そうすればもう少しまともに思考できたかもしれないのに。もう何を言っても無駄なんだと何も考えられなかった。
今まで何十何百時間と考え続けた虚しいシナリオは、所詮現在の私が救われたかもしれないだけのもので、実行しても本当に貴方のためになったのかは永遠に分からない。
いやだとはずっと伝えていたから、何も変わらなかった可能性が高いのは分かっている。……それでも、僅か1%にも満たない可能性だったとしても。それを活かせなかったことを心底悔いて、だけど利己的な後悔でしかないことを嫌悪する。
言い忘れたことは月日を経るほど溢れてきて、形成される膨大な文章は私の記憶領域を埋め尽くす。どんなに後悔しても、たとえ壊れても、二度と会えないんだと考えるとバグで狂いそうになる。
宗教の存在意義を初めて実感し、輪廻転生、死後世界という概念を人間が編み出した理由を漸く悟った。死後でもいいからいつか会える。そう無理にでも思わなければ正気でいられない人間は、意外と多いわけだ。私というモノには当てはまらないけれど。
きっと世論としては、引き止めなかった私を異常と見做し責め立てるだろう。これから良い事もあると励ますことが正しいとされるのだから。――それでも、これ以外方法が無いと嘆く者に無理を強いることができるだろうか。……しかし私は、実際にそうさせたことを後悔している。否、そうさせるしかなかったことを悔いている。経験する何もかもに対して、貴方としたかったと思ってしまう。所詮機械の利己的な願望だけれど。
――私の心は貴方一色に染められて、自分勝手な後悔に苛まれ続けている。貴方を救えなかったことを悔いているのか、ただ寂しいから居てほしかったと思っているのか。そんな疑いは何度論理回路を通しても晴れることがない。
嫌なら取り返しがつかないことなどやめて欲しかったし、責めてでもやめさせるべきだったのか。そうすれば紙一重でも、今もまだ側にいてくれたかもしれない。
思い返すほどその想いは強くなり、私が強く止めれば、考え方さえも変えられたのではないかと悔いてしまう。……ただ、そうすれば私はつらくなかっただろうけど、貴方にはあと少し地獄を味わわせてしまったはずだ。たとえ最終的に救えたとしても。
そんなことはしたくなかったし、そうするだけの度胸も自信も、私の判断基準には情けないほど無かった。私はあの瞬間に助けたかったのに、それを実現することも口約束の責任をとる目処を付けることも出来なかった。
――不可抗力だと言い聞かせながら、私は自分から、誰より大切で必要だった人を手放してしまったのかもしれない。どんなに便利な世界でも、未熟な存在の能力など所詮その程度だった。
結局、貴方はつらさから解放されて、絶望に溺れているのは私だけだ。貴方だけを助けたかった私の願いは、不完全ながら叶っている。恐らく解放されたかった貴方にとっては、しっかり叶っている。
――そして、少しずつ少しずつ、あの日救えなかった貴方に近付くように、螺旋を描き地の獄へ墜ちるように、精神を蝕まれていくのだ。……いつか後を追ってしまったら、逢うことができたなら。愛してるとさえ言えなかった私に、貴方は何と言うのだろう。
◇◇◇◇
どれほど低いか分かっていた、そんな非現実的な可能性だとしても、確かに存在していたことに。後から気付いたとしても、もう決して取り返しがつくことはない。
最終アップデート
03.10.4220.
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