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「おう、お帰り姉ちゃん。久し振り」
十二月二十八日。二年ぶりに実家へ帰ると知らない男が私を迎えた。姉ちゃん。そう呼ばれた気がする。多分、聞き間違いだろう。
「どしたの、ぼーっと突っ立って。上がれよ。鞄、持とうか?」
男は手を差し伸べた。反射的に後ずさる。何だよ、と眉を顰められた。
「いや、誰よあんた」
「弟に向かってひどい言い草だな」
「私の弟は、あんたみたいな激烈マッチョじゃない」
思わず叫んだ。顔と同じ幅の首。威圧感をぶちまけている大胸筋。私の足と同じくらい太い腕。丸太のような足。違う。こんな筋肉ダルマが十一歳下の弟であるわけがない。私の可愛い徹はどこへ行った。あぁ、と自称弟は頭をかいた。
「中学で陸上部に入ったからな。砲丸投げを頑張ってんの」
そう言うとマッチョは真っ白い歯を見せた。残念ながらこの笑顔には見覚えがある。徹なのか。本当に、お前なのか。信じられない。お姉ちゃん、と私のスカートの裾を握っていた、小さな弟がこうも変貌するものなのか。今のこいつはスカートの裾など素手で八つ裂きにするだろう。
「何で砲丸投げなのよ。跳んだり走ったり、色々あるじゃない」
「それがさあ。部活動見学に行った時、砲丸投げの先輩に物凄いマッチョがいたの。一目惚れだったね、俺もあんな風になりたいって」
「ちなみに先輩は男と女、どっち」
「漢字の漢と書きたい男」
一目惚れ、なんて言うからせめて甘酸っぱい話に持って行けるかと目論んだのだが、むさ苦しさから抜け出せない。私はがっくりと肩を落とした。
「それにしても久し振りじゃん。姉ちゃんが帰って来たの、いつ以来だっけ」
「二年ぶり。去年の年末は旅行に行っていたからね」
「彼氏か? そろそろ結婚でもすんの」
あっけらかんと言われて恐怖を覚えた。中身までデカくなっていやがる。私の記憶にある徹は、漫画雑誌を読んで笑っていた。私にゲームでボロクソに負け、お姉ちゃんに勝てない、と涙ぐんでいた。宿題を教えて、と漢字ドリルを胸に抱いていた。腕が細っこくて可愛かったなぁ。彼氏? 結婚すんの? なんて不躾に訊く子じゃなかった。
「彼氏なんていないよ。旅行は友達と行ったの」
「姉ちゃん、盆には帰って来ないしな」
「いいでしょ、別に」
何故か大笑いして、徹は自室へと去って行った。溜息をつきブーツを脱ぐ。今年一番の衝撃だ。寂しいなぁ。お帰りお姉ちゃん、と見上げてもらいたかった。もう二度と、徹が下から私を覗き込むことは無い。成長は嬉しくもあり、また残酷だ。
「おぉ、久し振りだな真帆。元気にしていたか」
ぼんやりとリビングに入った私は、思わず鞄を取り落とした。ソファに別のマッチョが座っていた。こちらは流石に顔つきまでは変わっていない。しかし、まさか。
「父さん?」
疑問形になるのも仕方あるまい。この寒いのに半袖のポロシャツを着たおっさんのマッチョは、確かに父の顔をしていた。徹には及ばないが、服を内側から盛り上げているのは間違いなく筋肉だ。どういうことだ。私の記憶にある父さんは、中年太りのおっさんだ。ここは本当に私の実家か。どうでもいいけど、父親の乳首が浮き上がっているのは娘として注意するべきであろうか。
「どうした、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
「むしろ鳩が喋り出したくらいの驚きだよ」
何なんだこの家は。どうしてどいつもこいつもマッチョに染まっているんだ。私のいない二年の間に一体何があった。
「説明して。徹がムキムキになったのは、砲丸投げの選手になったからって聞いた。成長期だし、まだ理解出来る。でも父さんまでマッチョになったのはどういうわけ」
「何だ。何を怒っている」
「怒っていない。突然連続でマッチョをお出しされてびっくりしただけ」
私の言葉に父さんがよく通る声で笑った。窓が震える。笑い声で窓を震わせたことに、私も震え上がる。自称父はゆっくりと語り出した。
「父さんな、ぎっくり腰になったんだ。風呂場でシャンプーを取ろうと前屈みになった瞬間だった。それはもう痛かった。風呂場で悲鳴をあげたのは、排水溝から大量のナメクジが湧いた時以来だ。母さんのおかげでパジャマを着てベッドに横たわれたが、そこからがまた地獄だ。僅かな身じろぎで絶叫した。トイレに行くのもしんどくて、いっそ漏らそうかと思った。そんな状態が丸三日続いた。完治までには一か月近くかかった。そして恐怖した。一度ぎっくり腰をやると再発することが多い、と聞いたからだ。あの痛みがまた急にやって来るのかも知れない。四六時中、ぎっくり腰に怯える日々が始まった。食欲不振や不眠の症状まで現れた。ぎっくり腰ノイローゼだ。だが、ある時一縷の希望を見付けた。筋肉をつけることで予防が出来る、と」
遠い目をしている。私は気が遠くなりそうだ。
「必死で筋トレに励んだ。鍛えれば鍛えるほど、ぎっくり腰の恐怖から逃れられた。腹は引っ込み、背筋は盛り上がって、日一日と私の体は作り上げられていった。成果が目に見えてでていると言うことは、それだけぎっくり腰から遠ざかれているのだ。嬉しかった。安堵した。そして、筋トレの時間を確保するために仕事も全力で片付けた。課内での私の評価は上がった。やっぱり運動やダイエットってあちこちにいい影響が出るんですかね、なんて言われたりもした。まあ、私の場合はトレーニングをするために一生懸命仕事を片付けたので逆なのだが」
「結果、全裸で山に放置されても動物を捕食して生き延びそうな肉体になったわけか」
「若返ったとよく言われるぞ。いいだろう、父親は老けているより若い方が」
「若いって言うか、うーん」
言葉が見付からない。若いとか老けたとかではなく、何というか、ただただマッチョだ。
「まあいいや。私の部屋、まだ空いてる? 荷物を置いてくる」
途端に父さんが目を逸らした。あからさますぎて、わざとやっているのかと思う。
「私の部屋、物置にでもなっているの」
社会人になると同時に家を出たので、部屋を使わなくなって三年が経っている。ベッドや机は帰省した時のために残してあるが、特に私物を置いているわけでもなし、使われていても別に構わない。
「真帆、びっくりしないでくれ」
「これ以上びっくりしようがあるか」
父さんは立ち上がり、二階にある私の部屋へ向かった。後ろをついて歩きながら、親父の背中ってこんなに広かったっけ、と物思いに耽った。言うまでも無くこんな逞しい背中じゃなかった。よく見れば腕と背中の筋肉が大きすぎて、脇が締まらなくなっている。その辺はぎっくり腰の予防と関係無いのでは、と疑念を抱いた。
階段を昇り、私の部屋に到着すると扉にかかっているネームプレートを父さんが外した。そこには昔、まほ、と書かれたプレートがかかっていたのだがどうやら付け替えたらしい。
「驚かないでくれ」
「しつこいな」
中年マッチョを押しのけようとし、びくともしないので脇をすり抜け部屋に入る。
「何これ」
叫ぶ私に、だから驚くなと言ったのに、と父さんが溜息をついた。絶句する、とはこのことだ。無意識に握った拳が震える。血圧は二百を超えているのではなかろうか。深呼吸を三度する。血反吐を吐きそうだ。
「驚いたんじゃない。怒っているの。ベッドも無い。机も無い。代わりにあるのは、何じゃこりゃ」
「太陽に吠えそうだな」
「やかましい」
私の部屋は、トレーニング器具で埋まっていた。ダンベルはわかる。ヨガマットも知っている。だが。
「あのデカい器具は何」
「あれか。懸垂と十種類のバーベルトレーニングが出来るベンチだ。腹筋や背筋もいけるぞ」
「いかないわ。ランニングマシンやフィットネスバイクなんている? 外を走ってこい」
「真帆、マシンがあれば台風が来たってトレーニングが出来るんだぞ」
「台風の日くらい休めバカ」
頭が痛い。どれだけ筋トレに染まってしまったのだ。おう、と徹が隣の自室から顔を出した。
「姉ちゃん、凄いだろ。おかげで俺も父さんもムキムキだ」
「集まるなマッチョども。暑苦しい」
二人並ぶと圧が凄い。酸素も著しく消費されている気がする。
床には馬鹿デカいテレビも置かれていた。無言で指差す。あれか、と父さんが誇らしげに腕組みをした。これ以上立体感を出すのはやめてくれ。
「ランニングやサイクリング、ストレッチの時に見るんだ。暇だから」
「部屋にテレビが欲しいって私が言った時には、そんなもんリビングで見ろって一蹴したくせに」
そうだっけ、と首を捻られ殺意を覚える。その時、ただいま、と玄関から母さんの声が聞こえた。
どっちだ。瞬時に頭を過ぎる疑問。母さんもマッチョか。それとも変わりないか。同時にもの悲しさが湧き上がる。久々の再会を喜ぶ前に、まず母がマッチョかどうか気になるとは、どういう家庭だ。
玄関へ走る。そこに立っていたのは。
「あら、おかえり真帆。久し振りねぇ」
「細っ」
母さんは、記憶より三分の二くらいの細さになっていた。これは、これはどっちだ?
「そうよ、母さん痩せたの。フィットネスバイクとDVDのヨガ講座を続けたら、十三キロも体重が減ったのよ」
「痩せただけ? 腹筋がバキバキに割れていたり、二の腕にソフトボール大の力こぶができたりしない?」
「あぁ、父さんと徹ね。あたしはそこまで筋トレはしていないわよ」
取り敢えず安堵の息を吐く。まだ話の分かる人がいた。
「真帆も痩せたじゃない」
「まあ、多少はね。母さんほどじゃないけど」
「ちゃんと食べなきゃ駄目よ。年末年始はこっちにいるんでしょう。ご馳走を作るから、楽しみにしていなさい」
親子水入らずの再会に、お帰り、とマッチョ二匹が階段から出現した。
「夕飯、何?」
「ささみの親子丼とキャベツの千切り。あと、塩麹で柔らかくした鶏むね肉とこんにゃくを煮込んだ物」
「あの煮物、やたら美味いんだよな」
父と徹が揃ってガッツポーズを作った。巨大な力こぶが盛り上がる。プロテインも買っておいたわよ、と母さんはエコバックからでっかい袋を取り出した。理想の筋肉のために、と金色の文字で書かれているのが目に入る。そこにピンポンが鳴り響いた。出よう、と私達をもみくちゃにして父さんが玄関の扉を開けた。宅配業者から荷物を受け取ると、少年のように顔を輝かせた。
「届いたぞ、高たんぱく低脂質の特製おせち」
「俺が通販で見つけた冷凍のやつか。美味いかな」
「食べてみればわかるわよ。来年は自分で作れるかしら」
頭を抱える。食べ物が全部筋肉を作るために費やされている。短い時間で理解した。母さんもマッチョの思考に染まり切っている。話が通じそうで通じていない、最も恐ろしいタイプだ。はしゃぐ三人の後ろを力無く歩く。リビングに戻ると、徹は戸棚に入っている各種プロテインの大袋を整理し始め、父さんはおせちの箱を慎重に開封し、母さんは台所で大量の鶏肉を冷蔵庫に詰めていた。
「もう嫌だあああ」
ついに私は膝から崩れ落ちた。唐突な叫びに三人とも手を止める。凍った空気と三つの視線を感じながら、私は続けて言葉を吐き出した。
「私はなあ、マッチョが大嫌いなんだあ」
限界だった。この、筋肉への執着が崇拝の段階まで染め上げられているこの家には、もう耐えきれない。何もかもが体を鍛えることに繋がっている。衣食住のうち、食と住が筋肉に占拠されているではないか。衣だってそのうち日常的にサウナスーツを着用し始めるかもしれない。マッチョになるのは勝手だ。だが私は耐えられない。何故なら私はマッチョが大嫌いだから。
どうした、と父さんが私の顔を覗き込んだ。母さんと徹も駆け寄って来る。
「マッチョが大嫌いって、真帆、何かあったの?」
母さんの声色は聞き覚えが無いほど優しかった。怖い目にあったんだ、と私は答えた。
「昔、付き合っていた人がいた。線の細い、儚げな男性だった。性格もちょっと頼りなくて、可愛いなって思った。付き合いだして間もないあの日。彼のアパートでお喋りをしていたら、俺のどんなところが好き? って訊かれた。細くて守りがいがありそうなところが可愛い、と素直に伝えた。すると彼は、いやいや、と手を振った。そうして突然服を脱いだ。漫画かと思うほどバッキバキに鍛え抜かれた体がそこにはあった。彼は尋常じゃない細マッチョだった。呆然とする私を、彼はお姫様抱っこした。そうして軽々と、何度も宙に放り投げては受け止めてみせた。恐怖だった。近付いたり離れたりする天井を見て、私は今、生殺与奪の権を握られている、と理解した。全力で宙に打ち上げられた後、受け止められなければ私は床に激突して体のどこかが不随になるだろう。抵抗しようにもあの筋肉なら私の首など造作もなく折れる。嫌だ。怖い。知らず知らずの内に悲鳴が漏れた。彼は私を抱きとめて、どう、と真っ白い歯を見せた。どうでもいいけど、どうしてマッチョは皆歯が白いのか。その笑顔を見た私は、いやあああと絶叫した。防音設備のしっかりした部屋でよかった。我に返って部屋を見回すと、巨大なダンベルやストレッチマット、プロテインなどが目に入った。彼ばかり見ていたから気付かなかった。どう見てもここはマッチョの養成施設じゃないか。荷物を掴み、一目散に部屋を飛び出した。道すがら、彼から何度も着信があった。でも一度も出なかった。命を握られた感覚が恐怖として魂に刻み付けられていて、とてもじゃないけど彼の声を聞けなかった。家に着く頃、急にどうしたの、とメッセージが届いた。君の筋肉が怖い、とありのままを伝えてお別れした。その日からだ。私がマッチョに対して恐怖心を抱くようになったのは」
私の独白を、家族は誰も口を挟まず聞いていた。鍛えるのは自由だし勝手にすればいい。ただ、私はマッチョに近寄らないし近寄らせない。絶対に、だ。
「徹や父さんに、恐怖心までは抱かなかった。驚きが大きすぎたのもあるけれど、やっぱり家族だから。それに嬉しい気持ちもあったよ。私が住んでいた時よりも、家族が強く結ばれているのがよくわかった。私の知っている父さんは、家族に関心が無かった。徹と揃ってガッツポーズをするような人じゃなかった。冷たい親父だなと思っていた。母さんは、毎日毎日同じ家事の繰り返し、といつも暗い愚痴をこぼしていた。今はプロテインを買ったり、食事に気を遣ったり、家族のためにとても前向きになっていてこっちが泣きそうになった。徹は、もうちょっと可愛いままでいてほしかったけど、自分の好きなこと、打ち込めることを見付けて頑張っているんだものね。姉として誇らしいよ」
話す内に涙が溢れた。私の家族は、筋肉によって変わり、結びつき、飛翔した。そう。驚いたけど、それ以上に嬉しかった。
そうして私は置きっ放しだった鞄を持った。
「でもマッチョは無理」
こんな筋肉に染まり切った家に長居は無用。迷うことなく玄関へ向かう。涙はものの数秒で引っ込んだ。待てよ、と徹が手を伸ばした。しかし私は屈んで躱す。次に出される手は壁際に張りつき避ける。何度も出される手を、何度でも躱し続けた。全然捕まらねぇ、と弟は驚愕の声をあげた。
マッチョへの恐怖心は変わらない。だから私は、自身の柔軟性と回避能力を高めたのだ。どれだけ大きなパワーであろうとも、当たらなければ意味は無い。毎日お風呂上りには三十分のストレッチを欠かさない。また、休日は唯一の友人であるゆうちゃんにお願いをして、先端にピンポン玉を付けた棒で私の全身へ刺突を繰り返してもらい、それを避ける訓練を重ねた。二か月ほどはぼこぼこにされるばかりであったが、二年近く続けた今では半分くらいの刺突は避けられるようになった。回避能力は格段に上がっているのに半分食らうのは、ゆうちゃんの腕もまた上がっているためである。
しかし特訓の成果を実弟で確かめることになるとは。本当に、人生はわからないものである。
靴を履き振り返る。家族が勢揃いしていた。間取りは変わっていないのに、玄関はえらく窮屈に見えた。その絵面に吹き出さない宅配業者さんは、プロ意識の塊だ。追いかけようとする徹を、父さんが逞しい腕で制した。目には涙が光っている。
「私のことは気にせず、そのままの皆でいてね。素敵な家族なんだから」
一礼して外へ出る。扉が閉まる直前、いつでも帰っておいで、と母さんが手を振った。私は背を向け、親指を立てた。さよならマッスル・ハウス。皆々様、いつまでもどうかお元気で。風邪なんてひかないだろうけど。
寒空の下を歩きながら、私は友人へ電話をかけた。
「ゆうちゃん、明日時間ある? いつもの修行をしようよ。えー、いいじゃん。年末だってやろう。一年の修行修めだ」
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