凍土に夢見る

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 濡れた顎が痒いのでマスクを外して、新しいマスクに取り替える。取り替える瞬間だけまともに呼吸が出来るが、手は替えのマスクのパッケージを破っていなければならない。そうして歩いていると、同時期に勤め始めたナギちゃんが声を掛けてきたので、急いで口にマスクを当ててから振り向いた。  ナギちゃんは五歳下で、実家住まいで、語学堪能で、隣の課で、リバーシブルのスカート一枚を日によって表にしたり裏にしたりして履いている。あと谷さんが嫌いだ。 「花金だね」  と古い言葉で言うので、今日は金曜日だったのかと思い出す。  花金とは花の金曜日、つまり金曜の夜になにか楽しいことがある人がつかう言葉なので、玉木はうんともううんとも言わず、むう、と発語した。  会社の人に会ったことと、会社までの距離があと数十メートルになったことで、表情がすでに会社モードになろうとしている。目元がうっすら笑みを浮かべようとしていて、これは時短勤務の六時間の間続くことになるだろう。 「ISOってクーラーの設定温度とかも関係するの?」  ナギちゃんが花柄のマスクを動かして喋る。マスクも、ブラウスも、スカートも、靴も全てが細かい柄物だ。 「一応、目安は決めるんじゃない。いまも総務がやってるけど、みんな無視してるね」 「空調ガンガンおじさんに言いやすくなるね」 「元々ナギちゃんは言ってるじゃん」 「谷さんがさむがりすぎるのもダルくない? いつも袖ない服着てるからじゃんね。課長が『寒くない? 寒くない?』ってキモいのもうわって感じ」  それはそう、と思いつつもう社屋が目の前なので玉木は黙って頷くのみにした。ナギちゃんは声が大きい。エレベーターホールに入れば、会社の人が目につき始める。始業ぎりぎり組はいつも同じような面子だが、玉木としては子どもを預けてから二時間かけて来ているという自負があるので、ナギちゃんと一緒にされたくない。  エレベーターホールの脇の郵便受けからは、朝早く来ているであろう総務の事務がすでに封書を取り出しているはずで、今ここに警察官が集まっていないということは炭疽菌はついていない。  人新世によって氷河時代は遠いものになってしまった。  今のメタンガス排出量ではとても次の氷河時代など起こりそうもなく、永久凍土の永久も儚く否定されていく。解けた大地からは新たな脅威、もしくは医学発展上の救いになるかもしれない新生物が発見されるかもしれないが、玉木はただ解けるだけの土地になっている。  冷蔵庫に弁当をしまうために休憩室に寄ると、ナギちゃんもなぜかそのまま着いてきた。 「朝食べる時間がなくて」  という手にはコンビニで買ったブール・ド・ネージュがあって、一息に食べきらないとならないパッケージだがいいのか? と思う目の前ですごい勢いで噛み砕かれていく。そんなつもりでは無かったが、ひとつくれるというので貰うと、口で解けてまったきバターの香りが次の一口を求めさせる。が、ナギちゃんにもう一つをねだるのもなんなので口にバターの余韻を残したまま休憩室を後にした。  あれは確かスノーボールクッキーとも言った。と思い出しながら、課員に挨拶をして、テキパキという音が鳴るように始業体制に入る。ポーズ、ポーズ、ポーズが大事なのだ。  手帳を開き、タスクを書き出しながら、メールを開く。  前日から続いているやりとりの返信や、急ぎのメールが無いか、未読メールのタイトルをさらいながらスノーボールアースのことを考えている。地球の全氷結という夢のある仮説は、その過酷な環境のなかでもバクテリアなどの単細胞生物が深海や火山周辺などで生き延びたと考えれば、生物の発生と進化の流れから見てもおかしくはないという話で、先週ウィキペディアを斜め読みしたばかりだった。  真っ白に氷結して全てが平らに凍った世界を夢想すると、斜め前の谷さんは始業五分前になっても来る気配がないことなど些末である。  課内には「またか」という空気が流れ始めている。谷さんは様々な理由で十五分程度遅れてくるのが常だ。  電話が鳴って、取ると、隣のインターンの男子が小さく頭を下げた。そうだ彼の仕事を奪ってしまったのだ、と玉木も会釈し返す。このタイミングでかかってくるのは谷さんに違いなく、事実、受話器の向こうから聞こえてきたのは甘ったるい谷さんの「おはようございまぁす」だった。  今朝の理由は何でしょう、と訊ねたくなる気持ちを抑えて挨拶を返せば、家から駅までの道で自転車に引っ掛けられてスカートが破れたため、一旦帰ったという。そのために遅れそうです、ということなので、表向きの気遣いの言葉をかけて切る。  ウツボ山課長の席に向かうとき、課内の皆が耳をそばだてる気配が分かる。  バリエーション豊かな谷さんの言い訳への意地悪な好奇心が、なぜか谷さん本人ではなく玉木に向けられているのを感じてマスクの下で唇を歪めた。  ウツボ山課長の大げさに心配する反応も合わせて、もはやコントの様相である。強制的にその登場人物にさせられているのは、人間が愚かで多様で面白いからであって、そんな風に栄えてしまったこの瞬間にも凍土は減り続けている。  小さな変化だったからこそ、突然身に迫ったように思える温暖化に、今更あせる。あせりつつも忘れている。  それよりも今目の前で繰り広げられているコントの方が面白くて当然で、この瞬間に遥か北極圏の穴について考える人などいない。2000頭のトナカイと一人の少年が死んだニュースも、すぐに忘れ去られた。 「もしもし谷さん? 怪我なかった? 大丈夫? 無理はしないでね、うん、こっちは大丈夫だから」  わざわざ折り返して谷さんに電話をかける課長を後にして席に戻ると、ナギちゃんから社内メールが来ていて、開かなくても内容は分かるので置いておくことにする。  永久凍土が北半球に占める割合を検索して、まだ六割は越えていることを確認して業務に入った。
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