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油をたっぷりフライパンに廻し掛けて、煙が出そうになるぐらいに熱くなったら、溶き玉子を流し入れた。
ジュッという音とともに、玉子の液体がぷくぷくと沸き立つ。
一瞬、玉子をかき混ぜる箸を止めて、フライパンからの香りを鼻孔の奥まで吸い込んだ。
玉子の油で焦げた匂いが、タクミは好きだった。
「玉子はね、こういう風に焼かなくちゃいけませんよ。みなさんも、覚えておいてくださいね。」
タクミは、まるでテレビの料理番組のシェフのような口調で、キッチンの誰もいない壁に向かって独り言を言った。
おにぎりは、昆布の佃煮を、ご飯に混ぜて握る。
これなら、おかずがイマイチでも、おにぎりだけ食べることもできるだろう。
形のデコボコは、まあ愛嬌だ。
タクミは、今までは、キッチンに立つことなんてしなかった。
でも、マリコが入院している間は、休日には、こうやってランチを作って病院に持って行くのがタクミの習慣になっていた。
習慣というよりは、こんなことでもしなけりゃ、何をして良いのかさえ分からなかったのだ。
マリコは、5年前に大腸がんになって、もう治ったかと思っていたら、転移が見つかり、その後は、入退院を繰り返していて、その頻度が最近早くなっていることに、タクミは、焦りを感じていた。
仕事帰りに毎日、病院に顔を出して、30分ほど話をして帰るのだが、休みの日には、こうやって、病院の食事では飽きるだろうと、タクミは弁当を拵えて持っていくのである。
「どう?」
タクミは、マリコの病室にいた。
「うん。大丈夫。」
そして、「あなた、最近、ちょっと痩せたんじゃないの?」と続けた。
「それは、僕のセリフだよ。マリコも痩せたんじゃない?」
「抗がん剤のせいかな。やっぱり病院のご飯じゃ、元気でないよ。」
「そうだろう。だから、今日も持って来たよ。お弁当。」
「ちょっと待って、中身当ててみようか。おにぎりに、玉子焼きでしょ。」
「うーん。惜しいなあ。オムレツだよ。」
「あのねえ、オムレツって言うのはね、中がトロリとした感じに作るのが美味しいのよ。」
「まだお弁当の蓋、開けてないじゃん。どうしてトロリとしてないって分かるのさ。」
タクミが答えると、マリコが噴き出した。
「だってさ、毎回、毎回、おにぎりと玉子焼きなんだもん。誰だって分かるでしょ。でもさ、どうして、あたしが、中がトロリとしたオムレツが好きだって知ってるのに、いつも焦げた玉子焼き持ってくるわけ。」
「だって、そんなプロみたいなこと出来ないよ。それにね、玉子は、焦げた匂いが美味しいんだって。っていうかさ、これは玉子焼きじゃなくて、オムレツなの。」
「じゃ、今度、退院したら伝授してさしあげますわ。、、、でも、わたし退院できるのかな。」
頼りなく笑った。
「そうだ、ねえ。ちょっと窓開けてくれない。」
タクミが、窓を少し開けると、隣の工場のペンキ臭いにおいが、爽やかな風に乗って部屋に吹き込んで来た。
「臭くない?」
「あたしね、この匂いが好きなのよ。だって、若いころシンナーやってたからさ。」
「ええっ。マリコ、シンナーやってたって、そんなの聞いたことないよ。えっ、いつ、いつなの、それって。」
タクミは、焦って身を乗り出して聞いた。
「あははは。冗談だよ。ほんと、タクミは素直だね。」
そういいながら、ベッドの横のテーブルにクッキーを1つ置いた。
「ほら、美味しいよ。おいで、チュン太郎、こっちにおいで。」
そういって、窓の外に向かって手を振っている。
「何してるの。」
「うん、ほら、あそこの電線に雀が止まってるでしょ。あの右から2番目の雀ね。あれチュン太郎っていうんだ。あのチュン太郎、あたしのところに来てくれないかなって、クッキー置いて待ってるの。」
「部屋の中までは入ってこないだろう。でも、2番目って、僕には区別がつかないな。」
「あのね、あたしの事を見て、ペコリって頭をさげるのよ。チュン太郎はね。だから、どの雀がチュン太郎かってわかるのよ。飛んで来たら、うまいことやって、手乗りにさせるのよ。どう、手乗りの雀、可愛いでしょ。昨日もね、1日窓を開けてたけど、入ってこなかったよ。個室だから出来るのよね、勝手に窓開けることも。そうだ、個室を取ってくれて、ありがとう。大丈夫?高いでしょ。一般の大部屋で良いのに。」
「こっちの方が、マリコと、ずっと喋っていられるしね。そのうちに退院できるだろうしさ。」
そういったものの、タクミは、胸が締め付けられた。
実は、担当の先生から個室に移動することを勧められたのだけれど、その意味をタクミは痛いほど理解していた。
詰まりは、もうマリコの命が持たないということなのだ。
あの時も、そうだった。
タクミの母親が、マリコと同じ大腸がんで入院していた時だ、もう1週間持たないというときに、個室に移動することを勧められた。
大部屋で、苦しみながら死ぬのを、他の患者に見られたくないからだ。
見られたくないというか、他の患者にとっても、本人にとっても、その方が、気が楽なのは理解できる。
でも、それを言われたときのショックは今でも忘れられない。
マリコが、今、個室にいるということは、その同じ状況が、マリコの身にも起きているということなのだ。
「舌切り雀のおばあさんって、残酷じゃない?糊を食べただけで、あんな可愛い雀の舌を切っちゃうのよ。あたしだったら、もしチュン太郎が入ってきたら、おもいっきり贅沢させてあげるわ。そうだ、あなた、チュン太郎が入ってきた時のために、あしたケーキ買って来てよ。チュン太郎に食べさせるの。」
「でも、チュン太郎は、ケーキなんて食べるのかい。」
「食べるわよ。だって、賢いんだよ。この前もね、道端で、何かをついばんで食べていたのよ。右目でチラっと見てね、それで食べた。すごいと思わない?今まで生きて来て初めて見たものが食べられるかどうか、ちょっと見ただけで分かるのよ。あたし、感心しちゃった。だから、ケーキも、チラっと見て、それで、あたしにペコリってやって、美味しそうに食べるわよ。」
「そうだ、あなた、チュン太郎の歓迎の歌と踊りも考えてよ。」
「歌と踊り?」
「そうよ。舌切り雀も、おじいさんを歌と踊りと御馳走で、おもてなしをしたのよ。浦島太郎だって、竜宮城でご馳走に、タイやヒラメの舞踊りよ。大切な人をおもてなしするには、歌と踊りがいるのよ。そうだ、あなた、ちょっとやってみて。」
「歌と踊りで、おもてなしはいいけど、僕は、やりたくないな。」
「どうしてよ。あたしの大切なチュン太郎を、おもてなしするのよ。やってよ。」
「いやだ。だって、恥ずかしいでしょ。歌も踊りも苦手なの知ってるでしょ。」
「そうなんだ。あたしのお願いも聞いてもらえないんだ。だって、あたしベッドで寝てるから踊り踊れないんだよ。」
そう言われたら、もう逆らえない。
しかし、マリコは本気なのだろうか。
「いやだなあ。でも、やるよ。チイ、チイ、パッパ、チイパッパ、、、スズメの学校の先生は、、、、えっと、鞭をふりふり、チイパッパ、、、。」
「ちょっと待ってよ。鞭をふりふりなんて、そんなの可愛そうじゃない。っていうか、それ昔からある歌でしょ。タクミさんのオリジナルがいいな。」
「オリジナルって、出来ないでしょ。」
「そうなんだ。じゃ、あたしが歌うから、あなた踊ってよ。」
「えーっと、チュン、チュン、チュン太郎はね、イケメンなんだ、かわいいやつさ、いつも、あたしを見て微笑んでるよ~。あれ、やっぱりオリジナルは難しいね。」
「なんか、途中から聞いたことのあるようなメロディになってたよ。」
「細かいこと言わないの。はい、あなた、踊って。」
「踊ってって言われてもさ。」
「はい、雀ちゃんの格好して。ほら、姿勢低くして、お尻突き出して、両手は、羽根のマネをしてね。」
「こんな感じかな。でも、あまりにも滑稽すぎるよ。この格好は。」
「はい。チュン、チュン、チュン太郎はね、イケメンなんだ、、、。ほら、お尻を振りながら歩くのよ。チュン、チュン、、、ほら、唇を尖がらかせて、くちばしよ。そう、タクミは、雀ちゃんなのよ。チュン太郎を、おもてなしするチュン太郎の恋人になった気持ちでやるの。ほら、お尻を振って、はい、両手の人差し指を頬っぺたに指さす。」
その瞬間、担当の先生が部屋に入ってきた。
タクミは、唇を尖らせて、お尻を突き出して、人差し指を頬っぺたに指さしていたが、そんな踊りを見られた恥ずかしさよりも、この踊りの練習が終わったことに、ホッとした。
「何やってるんですか。」
「ええ、雀のチュン太郎を、おもてなしする踊りの練習なんです。」
「なるほど。それは、良い。」
いや、何が良いだ。
そうツッコミを入れたかったが、マリコの診察が始まったので、黙っていた。
「ねえ、先生。あたしチュン太郎に、いっぱいご馳走たべさせようと思うの。そしたら、お礼にプレゼントをくれるかもしれないでしょ。舌切り雀みたいに。先生は、雀にお土産を貰うとしたら、大きなつづらにしますか、それとも、小さなつづら?」
「そうですね。私なら、大きなつづらかな。」
「あー、先生、欲張りなんだ。」
「だって、大きなつづらの方が、ワクワクするじゃない。プレゼントなんてね、その箱を開けるまでが大切なんですよ。どんなものが入ってるのかなって、いろいろ想像してね。それが楽しいの。それで、実際に、箱を開けたら、大概、ああ、こんなものかと。」
「でもさ、先生。大きなつづらには、ヘビとか虫とか入ってるんですよ。それで、小さなつづらには、金銀財宝が入ってる。箱を開けて、嬉しいのと、悲しいのと、全然違うんだよ。」
そう言うと、先生は、やや考えて、こう言った。
「物の価値というのはね、その物が出会った人によって、どうにでも変わってしまうものなんですよ。たとえば、金銀財宝だって手に入れたことで、強盗に遭って、殺されちゃうかもしれないでしょ。ヘビとか虫だって、どこかの偉い漢方の医者が見たら、誰かを救う事の出来る薬になるのかもしれない。物って言うのは、それを持っている人によって変わるんだよ。」
「、、、。先生って、ひねくれてるね。」
そう言って、笑った。
「じゃ、先生さ。あたしが、先生にプレゼントするとしたら、金銀財宝は要らない?ヘビと虫の方がいい?」
「いや、そこは、金銀財宝でお願いします。」
「よし!素直で宜しい。」
「おいおい、マリコ、先生に向かって、その言い方は失礼だろう。」
と、タクミが言ったら、マリコと先生が、声を出して笑った。
「ね、先生。タクミって真面目でしょ。」
「そうですね。良い御主人ですね。」
「そうだ。タクミは、雀さんにプレゼントを貰うとしたら、どっちにする?そうだ、大きい小さいっていうより、もっと具体的なのがいいな。ねえ、数日だけど、誰かに愛してもらえるというプレゼントと、健康で長生きできるというプレゼントと、どっちを貰う?」
「難問だな。どっちだろう。あ、先生なら、どっちですか。」
「あ、ずるい。即答しないんだ。そうだ、先生は、どっちですか。」
「医者だから言うのでもないけれど、やっぱり健康で長生きすることかな。」
「先生は、幸せ者なんだね。奧さんにも、既に愛されてると感じてるから、そういう答えになるのよね。」
「僕は、決められないよ。マリコは、どうなの。」
「そんなの簡単よ。数日でいいから、愛されることに決まってるでしょ。」
「でも、今、病気になって1番欲しいのは健康でしょ。」
「解ってないね、タクミは。あたし思うのね。誰かに、愛してもらえるってことは、奇蹟なんだと思う。ほら、世界中に男の人も、女の人も、兎に角、人が溢れかえってるでしょ。でも、アメリカに住んでいる人は、あたしのことを知らないし、中国に住んでいる人も、あたしのことを認識もしていない。ということは、アメリカにも中国にも、あたしを愛してくれている人がいないってことでしょ。日本で言ってもさ、99パーセントの人は、あたしの事を、まったく知らないで生きているんだよ。それでさ、あたしの周りにいる人も、ただ、あたしのことを同じ職場の人とか、その程度にしか思っていなくてさ。そんなことを考えたら、誰かに愛されるっていうのは、奇蹟なんだよ。」
「そうかもしれないね。」
先生が、急に興味を持ったのか、身を乗り出した。
「ほら、今の若い人も、街中で、キャピキャピと楽しそうでしょ。でも、たぶん、みんな寂しいんだと思うよ。孤独だと思う。誰かに愛して貰える奇蹟を待っているんだけど、そんな奇蹟は起きないって、始めから諦めてるのかもね。もう、今の若い男は、何やってるのかな。意気地がないよね。誰か好きな人がいたら、フラれてもいいからさ、愛してるって叫んであげなよ。そうしたら、たとえ、その男の子が好きじゃなかったとしても、告白された女の子は、救われるのにね。ひとりの女の子が救われる。素敵なことじゃない?」
「素敵な話だね。わたしも、今日家に帰ったら、奥さんと、子供に、愛してるって伝えます。そうだ、看護師のメグミちゃんにも愛してるって伝えようかな。それに、飲み屋のカズミちゃんにも伝えておいた方が良いな。だって、それで女の子が救われるんだもんね。」
そう言って、ちょっと悪い笑顔になった。
「先生。それはダメですよ。」
「やっぱり。」
「でも、飲み屋のカズミちゃんには、ちょっとだけ、言ったらアカンかな。ほら、それで、ちょっと飲み代も安くなるかもしれないしさ。カズミちゃんも悪い気がしないもんね。」
「だから。ダメですって。」
「まあ。仕方ないな。ここでは、一応、解りましたと言っとくべきか。」
そう言って、タクミにウインクをした。
先生が、部屋を出たあと、マリコは、タクミに話しかける。
「あのね。あたし、あと、どれだけ生きられるか分からないけれど、さっき言った話は本当よ。たとえ、もう長くはなくても、あたしの人生、良い人生だったと思う。だって、タクミさんの本当の気持ちは分らないけれど、きっと、あたし、タクミさんに愛してもらっていると思うのね。少なくとも、大切には思ってくれていると思う。それって、さっきも言ったけど、奇蹟なんだと思う。奇蹟は、ひとつあれば、それでいいの。長生きすることよりも、あたしは、タクミさんに大切にしてもらった奇蹟に感謝するわ。」
「ちょっと待ってよ。急にそんな事を言われたら、グッとくるじゃない。いや、そのなに、どういったら良いのか。」
タクミは、これから起こるであろうマリコの病状を考えると、その言葉が、切なくもあり、また嬉しくもあり、ただ、その嬉しさは、あまりにも重すぎて、マリコに、気づかれないように普通を装っていたが、遂に、こらえきれずに、大きな声を出して泣いてしまった。
「あのねえ、、、そんな泣かないでよ。でも、ありがとう。」
そろそろ、窓を閉めておこうか。
「うん。今日も来なかったね、チュン太郎。」
そして、タクミが帰ろうとした時だった。
「ねえ。明日、同窓会なんでしょ。」
「うん。今回は、行ってみようかなと思っているんだ。でも、お酒は、飲まないよ。」
タクミは、マリコの転移が分った時から、大好きだったお酒を断って、有名ながん封じの神社に願掛けをしているのである。
「ねえ、それなんだけれどさ。もう、お酒を断つのは、やめたらどう。」
「でも、1度始めたことだからさ、途中で止めるのも、なんかダメな気がするんだ。っていうか、何かしていないと、落ち着かないっていうかさ。」
「うん。あたしの為にしてくれているっていうのは、ありがとうだよ。でも、ちょっと、気が重いって言うかさ。申し訳ないのよね。それに、大好きなお酒を止めるから、あたしの病気を治してって言うのは、ギブアンドテイクみたいで嫌なのよ。本当に、人のためにある神様なら、そんなことをしなくても、無条件で治してくれるはずだよ。ほら、マリア様みたいに、無条件の愛でさ。」
そう言って、胸で十字を切って「アーメン」と言ってみせた。
「マリコ、いつからキリスト教徒になったんだ。」
「うん。今さっき。」
「あたし、タクミさんのどんな顔が好きかって言ったら、お酒を飲んで酔っ払っているタクミさんの顔が好きなのよ。だから、それを見せて欲しいの。」
「そんなバカな。」
「ほんとよ。だって、あなた、結婚してから、ずっと毎日毎日酔っぱらってるんだよ。新婚のお金のない時だって、毎日、酔っぱらってたじゃない。お金ないのにさ。あ、まあいいか。お金なかったことは、置いておいてさ。」
「うん。そこは、置いておいて欲しいな。でも、酔っぱらってる顔って、情けない顔でしょ。」
「そうよ。情けない顔よ。でも、その情けない顔を、ずっと毎日、見て来たら、いつしか、可愛い顔に見えるようになってたのよ。あなた、酔っぱらってくると、目が垂れ下がってくるのね。あなたの目が、時計の針で言うと8時20分になったら、かなり酔っぱらってる。んでもって、7時25分になったら、二日酔い確定ね。どうよ。こんなこと知ってるのあたしだけだよ。だから、もうお酒を断つのは止めて欲しいの。その方が、あたしも気が楽なのよ。これは、お願いなの。ね、今日から、お酒は、解禁!分かった?」
「その方が、気が楽っていうなら、そうするよ。まあ、これを始めたのも、僕の、勝手というか、どうする事も出来なくて始めたことだものね。冷静に考えたら、お酒とマリコの病気は、関係ないもんね。」
「じゃ、明日の同窓会は、大いに飲んでね。久しぶりでしょ。そうだ、ちゃんと飲んでるか、ちゃんと酔っぱらってるか知りたいから、写メ撮って、酔っぱらってる写真を送ってよ。いい?」
「ああ。分った。」
そうやって約束をした同窓会。
最初の乾杯を写メしてマリコに送った。
「よし、よし。良い子だね。久しぶりのお酒、楽しんでね。」
そう返信があった。
その後、昔話に花を咲かせて、大いに飲んだ。
たぶん、僕の目は、8時40分を廻っていただろう。
そのまま、2次会に行って、かなり酔っぱらって、帰宅した。
そして、服を脱ぐこともなく、眠ってしまったのである。
翌日、タクミが目を覚ますと、携帯に何件もの着信が残っている。
病院からだった。
慌てて、電話をしたら、マリコが昨夜、亡くなったという。
なんでも、夜中に病状が急変したらしい。
タクミは、頭を抱えて部屋中を歩き回っては、言葉にならない声を発していた。
「ああ、なんてバカなことをしたんだろう。僕が飲み過ぎなければ、電話に気が付いたはずだ。ああ、ああ。」
急いで、病院に向かうと、そこには、もう抜け殻になったマリコが横たわっている。
タクミは、泣きさけんだ。
もう、どう思われたっていい。
ただ、どうしようもなく、そして、どうしようもなく。
そして、泣いた。
すると、看護婦さんが言った。
「急変する前に、メールを打とうとしてましたよ。ひょっとしたら、ご主人宛てじゃないかしら。」
テーブルに置かれた携帯にマリコの暗証番号を打ち込むと、書きかけのメールがあった。
「奇跡を、」
それだけが書かれていてた。
タクミは、今なら、即答できると思った。
マリコの、雀のお土産の話である。
愛してもらえるプレゼントなんて要らない。
断言できる。
マリコが健康で長生きできるプレゼントが欲しい。
ただ、マリコに生きていて欲しい。
そして、そばにいて欲しい。
或いは、どんなにマリコに嫌われてもいい。
ただ、マリコという女の子が、この世界に、生きていてくれさえすれば、それでいい。
いや、マリコに、この一生で巡り合うことが叶わなくてもいい。
マリコが、存在することができるなら、僕はそれを選択する。
タクミは、マリコの寝顔に向かって呟いた。
「あのね。昨日は、8時40分の情けない顔になってたよ。」
窓の外で、チュン太郎がペコリとやったような気がした。
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